藤堂高虎の雑学12選!身長約190cmで全身傷だらけ

「主君を何度も変えた武将」と聞くと、信用できない人物を思い浮かべるかもしれません。ところが藤堂高虎は、仕えた主君たちから次々に認められ、300石の身から約32万石の大名にまで出世しました。

若いころは同僚を斬って家を飛び出す荒くれ者で、身長は約190cmともいわれる大男。その一方で、20以上の城づくりに関わった築城の名人でもあります。そんな藤堂高虎にまつわる雑学を12個ご紹介します。

規格外の体と暴れた若き日

高虎は生まれたときから体が大きく、若いころは気性の荒さでも知られていました。まずは、大名になる前の高虎の姿から見ていきます。

1. 乳母1人では足りない赤ちゃん

乳母1人では足りない赤ちゃんのイラスト

藤堂高虎は1556年(弘治2年)、今の滋賀県に生まれました。赤ちゃんのころから体が大きく、乳母1人では乳が足りなかったそうです。

乳母を2人に増やしてもまだ足りず、家臣の妻たちからも乳をもらったと伝わります。泣き声も大きく、行いも乱暴だったとか。誇張も含まれていそうですが、のちの大男ぶりを思わせる話です。

※乳母は「うば」と読み、母親の代わりに乳を与えて子どもを育てる女性のことです。

2. 身長約190cmで全身傷だらけ

身長約190cmで全身傷だらけのイラスト

高虎の身長は、資料によって六尺二寸とも六尺三寸ともされます。今の単位でおよそ188〜191cmにあたり、一般には約190cmの大男だったと言われます。

亡くなったあと遺体を清めた家臣の記録によると、体じゅうが鉄砲や槍の傷だらけでした。右手の薬指と小指はちぎれて爪がなく、左手の中指も約3cm短くなっていました。

※1尺は約30.3cm、1寸は約3cmです。身長の数字は資料によって異なり、はっきりした記録は見つかっていません。

3. 同僚を斬って浅井家を飛び出す

同僚を斬って浅井家を飛び出すのイラスト

高虎が最初に仕えたのは、近江の大名・浅井長政でした。1572年(元亀3年)、数え17歳の高虎は同僚の山下という人物を斬り殺し、浅井家を飛び出しました。

原因は不明ですが、手柄をめぐる口論の末とも言われます。次に仕えた阿閉家でも同僚を手にかけ、再び浪人になったと伝わります。

※数え17歳は、生まれた年を1歳とする数え方で、満年齢では16歳です。

※阿閉は「あつじ」と読みます。浪人は、仕える主君を持たない武士のことです。

4. 食い逃げした餅と旗印の由来

食い逃げした餅と旗印の由来のイラスト

浪人時代の高虎は、今の愛知県豊橋市にあった吉田宿の餅屋で、お金もないのに餅を食べてしまったといいます。正直に打ち明けると、店主は代金を許したうえ旅費まで持たせてくれたとも。

のちに藤堂家は、白い餅を3つ描いた「三つ餅」を旗印にしました。白餅を「城持ち」にかけたという説があります。

※白餅は「しろもち」と読みます。逸話の細かな中身は、資料によって少しずつ異なります。

主君を渡り歩いた世渡り術

高虎は主君を何度も変えながら、そのたびに新しい主君の信頼を得ていきました。ここでは、主君や家臣との関わりにまつわる話を集めました。

5. 藤堂高虎が仕えた主君は何人?

藤堂高虎が仕えた主君は何人のイラスト

高虎が仕えた主君は、一般に7人とされます。浅井長政に始まり、豊臣秀長・秀保の父子や秀吉を経て、最後は徳川家にたどり着きました。

ただし秀頼や秀忠・家光まで1人ずつ数えれば、11人にもなります。「七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という言葉も有名ですが、本人が言った確かな出典は見当たりません。

6. 家康の屋敷を勝手に設計変更

家康の屋敷を勝手に設計変更のイラスト

秀長に仕えていたころ、高虎は京都の家康の屋敷づくりを任されました。設計図に守りの弱い点を見つけると、独断で図面を変え、費用も自分で出したと伝わります。

理由を尋ねた家康に、高虎は「家康様に万一のことがあれば、秀吉様の面目に関わります」と答えました。家康は感謝し、これが2人の縁の始まりとされます。

7. 主君の死で高野山にこもる

主君の死で高野山にこもるのイラスト

1595年(文禄4年)、高虎の主君・豊臣秀保が若くして亡くなります。秀保は秀長の養子で、秀吉の甥にあたる人物です。主君を失った高虎は出家し、高野山に入りました。

その才能を惜しんだ秀吉は、生駒親正に説得させて高虎を呼び戻したといいます。僧をやめて戻った高虎は5万石を加えられ、伊予板島で7万石の大名になりました。

※出家は、家を出て僧になることです。石は、米のとれ高で表した領地の大きさの単位です。

※秀保は「ひでやす」、生駒親正は「いこまちかまさ」と読みます。伊予板島は、今の愛媛県宇和島市にあたります。

8. 家康のために宗派を変えた

家康のために宗派を変えたのイラスト

1616年(元和2年)、死を目前にした家康は高虎を枕元に呼び、「来世ではそなたに会えないのがつらい」と涙を流しました。

日蓮宗だった高虎は、「家康様と同じ天台宗に改めますので、来世でもお仕えできます」と答えたと家臣の覚書に残ります。高虎の戒名は天台宗の僧・天海が付けたもので、墓は東京・上野の寒松院にあります。

※戒名は、亡くなった人に付けられる仏教の名前です。天海は「てんかい」、寒松院は「かんしょういん」と読みます。

9. 辞める家臣に開いた茶会

辞める家臣に開いた茶会のイラスト

ほかの家に仕えたいと暇乞いをする家臣がいると、高虎は翌日に茶会を開き、その席で太刀を贈ったと伝わります。

そのうえで、新しい仕え先でうまくいかなければ戻ってきてよいと告げたそうです。自身も主君を何度も変えてきた経験から、去る者の気持ちがよく分かったからだとも言われます。

※暇乞いは、仕えている家を辞めたいと願い出ることです。

築城の名人が残したもの

高虎は戦での働きだけでなく、城づくりの腕でも名を残しました。高虎が手がけた城や、東京に残るゆかりの場所を紹介します。

10. 藤堂高虎が関わった城は20以上

藤堂高虎が関わった城は20以上のイラスト

高虎は加藤清正と並ぶ築城の名人で、生涯で20以上の城づくりに関わったとされます。海水を堀に引き込んだ今治城や宇和島城・津城のほか、江戸城や、徳川の時代に築き直された大坂城の縄張りも手がけました。

また、工期と費用を抑えられる層塔型天守を広めたのも、高虎だと考えられています。

※今治城は「いまばりじょう」と読みます。
※縄張りは、堀や石垣、建物の配置を決める城の設計のことです。
※層塔型天守は、同じ形の階を上ほど小さくして積み重ねた天守です。
※城の数は、どこまでの関わりを数えるかによって変わります。

11. 四角に見えて五角形の宇和島城

四角に見えて五角形の宇和島城のイラスト

1601年(慶長6年)に高虎が完成させた宇和島城は、四角形に見えて実は五角形。この設計は「空角の経始」と呼ばれます。

幕府の隠密による1626年(寛永3年)の報告書にも、「四方」とあったそうです。敵の目をごまかす工夫だったとも、地形に合わせた結果ともいわれます。なお今の天守は、のちの城主・伊達氏による建て替えです。

※空角の経始は「あきかくのなわ」と読みます。隠密は、ひそかに情報を集める役目の人です。

12. 東京・上野と高虎の深い縁

東京・上野と高虎の深い縁のイラスト

東京の上野東照宮は、1627年(寛永4年)に高虎が自分の土地に建てたものです。今の豪華な社殿は、のちに3代将軍・家光の命で建て替えられました。

上野という地名も、高虎が領地の伊賀上野にちなんで名付けたという言い伝えがあります。ただ、高虎が生まれる前の1559年(永禄2年)の記録に、すでに上野の名が見えるのです。

まとめ

藤堂高虎は、同僚を斬って主家を飛び出すほどの荒くれ者として出発しました。それでも主君を変えるたびに実力を認められ、300石から約32万石の大名にまで上りつめています。

家康の屋敷を自腹で守りやすく作り変えた話や、臨終の家康の前で宗派を変えた話からは、主君の信頼をつかむ細やかな気配りも見えてきます。宇和島城や今治城など20以上の城づくりに関わり、東京・上野にもゆかりの場所が残っています。

「主君を何度も変えた武将」という一面だけでなく、多くの主君に必要とされ続けた人物として見ると、高虎の印象も少し変わるかもしれません。

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更新日:2026年10月4日(日) 09:54

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