関ヶ原の戦いの雑学12選!有名な布陣図は明治の創作だった

関ヶ原の戦いは、慶長5年(1600年)の9月15日に徳川家康の東軍と石田三成らの西軍がぶつかった「天下分け目」の決戦です。ただ有名な布陣図や小早川秀秋への「問鉄砲」など、よく知られた場面の中には後世に作られた可能性が指摘されているものもあります。

決戦そのものは半日足らずで決着しましたが、離れた城でも戦いが続き戦後の処分は200年以上先まで影響を残しました。そんな関ヶ原の戦いにまつわる雑学を12個ご紹介します。

実はウソかもしれない通説

教科書やドラマでおなじみの場面にも、近年の研究で見直されているものがあります。まずは、通説がゆらいでいる3つの話から見ていきましょう。

1. 有名な布陣図は明治生まれ

有名な布陣図は明治生まれ

おなじみの布陣図の元は、1893年に陸軍参謀本部が刊行した『日本戦史 関原役』の付図です。歴史学者の白峰旬さんは、同書の本文や江戸時代の軍記物との食い違いから、明治の創作とみています。

メッケルは図の刊行前に帰国しており、「メッケルが布陣図を見て西軍の勝ちと言った」という逸話にも典拠はありません。

※メッケルは明治に来日したドイツの軍人で、滞日は1885年3月〜1888年3月。布陣図の刊行は1892〜93年です。

出典:白峰旬「関ヶ原の戦いの布陣図に関する考察」(別府大学)、乃至政彦(JBpress・2022年)

2. 「問鉄砲」は後世の創作説

「問鉄砲」は後世の創作説

裏切りを迷う小早川秀秋に家康が鉄砲を撃ちかけて決断を迫ったという「問鉄砲」は、白峰旬さんは一次史料に見当たらない創作だと主張し有力な説になっています。

最も古い記述は1663年の『慶長軍記』ですが、9月17日付の書状には「秀秋や脇坂らが裏切った」とあり、イエズス会の報告も開戦と同時に寝返ったという内容でした。

※一次史料とは、その時代に当事者や同時代の人が書き残した手紙や記録のことです。

出典:呉座勇一(プレジデントオンライン・2023年)、高橋陽介(現代ビジネス・2025年)

3. 三成の本陣は自害峰だった?

三成の本陣は自害峰だった?

石田三成の本陣といえば笹尾山ですが、『戸田左門覚書』には「松尾山の下、自害か岡」に陣を置いたとあります。高橋陽介さんはこれをもとに、本陣は2〜3km南の自害峰だったという説を唱えています。

自害峰は壬申の乱で敗れた大友皇子の首を葬ったという伝承の地で、明治期には宮内省が御陵の候補地として調べました。

※自害峰は岐阜県関ケ原町藤下にあり、伝承にちなむ三本杉のうち2本が町の天然記念物になっています。

出典:乃至政彦(JBpress・2020年)、関ケ原観光ガイド

9月15日、決戦当日の真相

続いては、慶長5年(1600年)9月15日の決戦当日の話です。始まり方から退き方まで、意外な出来事が重なっていました。

4. 開戦のきっかけは抜け駆け

開戦のきっかけは抜け駆け

東軍の先鋒はもともと福島正則が務める予定でした。ところが家康の重臣・井伊直政が、娘婿の松平忠吉を連れて前へ出て戦いの口火を切ったと伝わります。

忠吉は家康の四男でこの戦いが初陣でした。一方で霧の中で両軍が思いがけずぶつかった遭遇戦だった、という見方もあります。

※先鋒(せんぽう)は、軍の先頭に立って最初に戦う部隊のことです。

5. 決戦は半日足らずで決着

決戦は半日足らずで決着

1656年の『関原始末記』は辰の刻から午の刻まで、家康が当日に伊達政宗へ送った書状も午の刻に決着したと記しています。

朝は霧と雨に包まれ、晴れたのは巳の刻ごろだったそうです。

天下分け目の決戦は意外なほど短い時間で終わりました。

※辰の刻はおよそ午前7〜9時、巳の刻は午前9〜11時、午の刻は午前11時〜午後1時ごろを指します。

出典:nippon.com

6. 毛利の大軍が動かなかった理由

毛利の大軍が動かなかった理由

南宮山の毛利秀元軍は約3万とされますが一戦もせずに退きました。前方にいた吉川広家が黒田長政を通じて東軍に内通し、決戦前日に戦わない約束を交わしていたのです。

出陣を問われた秀元は「兵に兵糧を食べさせている」と答えたとか。しかし領地を守るという約束は戦後に反故にされ、毛利家は大きく減封されました。

※減封(げんぽう)は領地を減らす処分のことです。毛利家は112万石余りから、周防・長門の約29万8000石になりました。

出典:サライ.jp

7. 島津は敵陣の正面を突破

島津は敵陣の正面を突破

島津義弘の軍勢約1500は退却の際に前方の東軍へ突っ込み、その中を突き抜けていきました。少人数をその場に残して追っ手を足止めする「捨て奸」で逃げ延び、島津豊久は烏頭坂付近で討死したとされています。

追ってきた井伊直政も銃弾を受けて負傷させ、帰り着けた兵は80数名とも数十人ともいわれるほどでした。

※「捨て奸」は「すてがまり」と読みます。鹿児島県日置市では、義弘ゆかりの行事「妙円寺詣り」がいまも続いています。

出典:姶良市・日置市(公式サイト)

戦場の外と戦いのその後

関ヶ原の戦いは、関ヶ原だけで起きていたわけではありません。最後は、遠く離れた場所での戦いと、戦後に残った影響を紹介します。

8. 秀忠の大軍は間に合わず

秀忠の大軍は間に合わず

徳川秀忠は3万を超える大軍で中山道を進みましたが、上田城を攻めて落とせず足止めされました。さらに家康からの使者が大雨で遅れ、勝利を知ったのは9月17日の妻籠宿でのことでした。

もともと上田攻めが任務だったという説もあり、家康が激怒した話には誇張の疑いも指摘されています。

※妻籠宿(つまごじゅく)は中山道の宿場町です。秀忠が家康と合流できたのは9月20日、大津でした。

出典:渡邊大門(Yahoo!ニュース エキスパート)、レファレンス協同データベース

9. 負けたのに加増された大津城

負けたのに加増された大津城

東軍についた京極高次は約3000の兵で大津城に籠もり、毛利元康や立花宗茂ら約1万5000の攻撃を受けました。降伏したのは決戦前日の9月14日で、攻め手の大軍は本戦に加われなかったことになります。

戦後、高次には若狭一国8万5000石が与えられ、翌年の加増で9万2100石になりました。

※城内には、淀殿の妹の初や、松の丸殿と呼ばれた龍子もいました。

出典:渡邊大門(Yahoo!ニュース エキスパート)、城びと

10. 天皇の命令で止まった籠城戦

天皇の命令で止まった籠城戦

細川幽斎は約500の兵で田辺城に籠もり約1万5000の西軍に囲まれました。67歳の幽斎は和歌の奥義「古今伝授」の継承者で、その断絶を弟子の八条宮智仁親王や後陽成天皇が心配したのです。

天皇の使者による講和で、包囲から約2か月後の9月13日に城は開かれました。

※古今伝授は、『古今和歌集』の解釈を師から弟子へ秘伝として伝えるものです。

出典:舞鶴観光ネット、京都府観光連盟

11. 宇喜多一族の八丈島263年

宇喜多一族の八丈島263年

関ヶ原の戦い後、改易された大名は88家・約416万石余りにのぼるとされ、家康の領地は約255万石から約400万石に増えました。西軍の宇喜多秀家は1606年に八丈島へ流され、1655年に84歳で亡くなっています。

一族が許されたのは1869年で263年ものあいだ島で暮らし、前田家などからの仕送りに支えられました。

※改易(かいえき)は、領地を取り上げて大名の身分を奪う処分です。

出典:岡山県東京事務所

12. 関ヶ原はいまも東西の境目

関ヶ原はいまも東西の境目

日清食品の「どん兵衛」には東日本向けと西日本向けがあり、その境目は関ケ原です。販売は県単位のため岐阜県で売られているのは東日本向けの味なのです。

関ケ原は伊吹山地と鈴鹿山脈の切れ目にあたり、雪雲が通り抜けやすい土地のため、東海道新幹線が雪で徐行する名所としても知られています。

※古代には不破関(ふわのせき)という関所が置かれた場所で、町の正式な表記は「関ケ原町」です。

出典:日清食品、乗りものニュース

まとめ

関ヶ原の戦いは、有名な布陣図や問鉄砲、三成の本陣の場所など、通説そのものが研究によって見直されている戦いです。決戦当日は、戦い自体が半日足らずで終わり、毛利の大軍は動かず、島津は敵中を突破して退却しました。

一方で、秀忠の遅参や大津城・田辺城の籠城戦など、戦場の外でも見逃せない出来事が起きています。宇喜多家の一族が263年も八丈島で暮らしたように、戦後処理の影響はとても長く続きました。関ヶ原という土地が、いまも東西の境目として話題にのぼるのも興味深いところです。

あわせて読みたい

更新日:2026年10月23日(金) 11:36

コメントを入力

TOP