モアイ像の雑学12選!頭だけに見えて胴体は土の下

南太平洋に浮かぶイースター島には、900体ほどのモアイ像が残されています。大きな顔がずらりと並ぶ姿は、一度見たら忘れられないほどのインパクトです。

ところがあの像には地中に隠れた胴体があったり、かつては目が入っていたりと意外な事実がたくさんあります。運び方や倒れた理由など、今も研究が続く謎も少なくありません。

そんなモアイ像にまつわる雑学を12個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。

モアイの体と顔のひみつ

まずは、モアイの姿そのものに隠された意外な事実から見ていきましょう。

1. 頭だけの像にも胴体がある

頭だけの像にも胴体がある

ラノ・ララクの斜面には頭だけが地面から出たモアイが並んでいますが、実は土の下に胴体が続いています。UCLAの研究者らの発掘では、高さ約7mの2体が胴体まで掘り出されました。

埋まったのは斜面上から土砂が流れ込んだためで、わざと埋めたわけではありません。海沿いのアフに立つ像は、もともと全身が見える姿です。

※アフは石を積んで作った祭壇のことです。胴体の存在は1914〜15年の英国の調査隊の頃から知られていました。

出典:イースター島彫像プロジェクト(EISP)の発掘調査

2. 多くのモアイは村を向く

多くのモアイは村を向く

モアイは祖先を表し、マナと呼ばれる霊力で村を守ると考えられています。そのため多くの像は海に背を向け、内陸の村を向いて立っているのです。

例外はアフ・アキビの7体で、海の方を向いています。伝説では初代王ホツ・マツアの上陸前に送られた7人の偵察者とされ、春分・秋分の日没方向と重なるという説もあります。

※アフ・アキビの7体は、1960年にアメリカの考古学者ウィリアム・マロイらが修復しました。

3. 白い目がはめ込まれていた

白い目がはめ込まれていた

1978年ごろアナケナ海岸のアフ・ナウナウを修復していた際に、白サンゴの破片と赤い石の円盤が見つかりました。組み合わせると長さ約35cmの目になり、モアイにはかつて目があったとわかったのです。

瞳には黒曜石のものと赤いスコリアのものがあります。ふだんは目を入れず、儀式のときだけはめ込んだとする見方もあります。

※発見したのはラパ・ヌイ出身の考古学者ソニア・ハオアです。スコリアは軽石のような赤い火山岩を指します。

4. 頭の赤い石は髪を表す

頭の赤い石は髪を表す

一部のモアイがのせる赤い円筒はプカオと呼ばれ、長い髪を結ったまげを表すという説が有力です。材料のスコリアは、プナ・パウという1か所の石切り場から運ばれました。

大きなものは直径約3m、重さは10t前後です。2018年の研究では約17度の傾斜路とロープで転がし上げたと推定され、10〜15人ほどで動かせた計算です。

※身分の高い男性の髪形とする見方で、帽子とする説も完全には否定されていません。

出典:ビンガムトン大学などの研究チーム(Journal of Archaeological Science、2018年)

運び方と島の名前の謎

何十トンもある石像をどう運んだのかは、長く議論されてきたテーマです。島の名前の由来とあわせて紹介します。

5. モアイは歩いて運ばれた?

モアイは歩いて運ばれた?

像を立てたまま左右からロープで揺すり、歩くように進めたという説があります。ある研究チームは約4.4tのレプリカを18人で100m、約40分かけて動かしました。

2025年には同チームが物理モデルや道路跡の分析で改めてこの説を主張しました。伝承にも「モアイは歩いた」とあり、そりやコロを使う説とともに注目されています。

※実験を行ったのは、ビンガムトン大学のカール・リポ氏とアリゾナ大学のテリー・ハント氏らのチームです。

出典:ビンガムトン大学などの研究チーム(Journal of Archaeological Science、2025年)

6. 立てられた最大の像は約10m

立てられた最大の像は約10m

立てられた中で最も背が高いのはアフ・テ・ピト・クラの「パロ」で高さ約9.9m、重さ約80tです。今は割れて伏せており、立像で最も重いのはアフ・トンガリキの約86tの像です。

ラノ・ララクの岩盤には寝たままの未完成像「エル・ヒガンテ」も残り、全長は約21mに達します。推定重量は約150〜270tともされます。

※モアイの約95%はラノ・ララクの凝灰岩から彫られ、総数は約900体とされます。

7. イースター島の名前の由来

イースター島の名前の由来

1722年4月5日、オランダのヤーコプ・ロッヘフェーンが島に到達しました。その日が復活祭、つまりイースターの日曜日だったため「復活祭の島」と名づけられました。

チリの公式名イスラ・デ・パスクアも、スペイン語で同じ意味です。ラパ・ヌイという名は1860年代以降に広まったもので、島の古い呼び名ではありません。

倒れたモアイと島の現在

一度は倒れたモアイがどう立ち直ってきたのか、日本との意外なつながりや島の歴史をめぐる新しい研究とともに取り上げます。

8. 一度はすべて倒されていた

一度はすべて倒されていた

1722年には立っていたモアイも、1774年にクックが訪れたころには多くが倒れていました。1868年にはアフの上に立つ像が1体もなくなり、この像倒しをフリ・モアイと呼びます。

敵対する集団のマナを断つため、互いに像を倒し合ったという説が有力です。今アフに立つ像は、どれも近代以降に立て直されたものになります。

※最後の立像は1838年ごろに確認されたパロとみられます。

9. 日本企業が15体を再建

日本企業が15体を再建

アフ・トンガリキの15体は、1960年のチリ地震津波で内陸へ流されていました。1988年に日本のテレビ番組で島の知事が「クレーンがあれば起こせるのに」と語り、見ていたタダノの社員が寄贈を提案します。

1991〜1995年にはチリ政府やチリ大学と協力して作業が進み、最大約86tの像を含む15体が再び並んでいます。

※タダノは香川県のクレーンメーカーです。クレーンは2022年までに計3台が島へ贈られました。

10. 南三陸町に来た本物のモアイ

南三陸町に来た本物のモアイ

1960年のチリ地震津波で被災した旧志津川町には、1991年にチリの彫刻家によるモアイが置かれました。2011年の東日本大震災で津波にのまれたものの、像はガレキから見つかっています。

2013年には、イースター島の石から島の彫刻家が彫ったモアイが贈られました。門外不出の石が島を出られたのは、長老会の協力のおかげでした。

※旧志津川町は現在の宮城県南三陸町です。2013年のモアイは高さ3m、重さ2tで、島の許可を得て新たに彫られ島外に出た本物とされます。

11. 大英博物館にあるモアイ

大英博物館にあるモアイ

「ホア・ハカナナイア」は、儀式村オロンゴの家に半ば埋もれていた玄武岩のモアイです。1868年に英国の軍艦が島の許可なく持ち出し、女王を経て大英博物館へ渡りました。

2018年に島の代表団が訪れ、知事が「あなたたちは私たちの魂を持っている」と返還を求めました。博物館は返還を約束せず、今も展示中です。

※女王はヴィクトリア女王のことです。博物館側は返還ではなく、島との協働事業を進めるとしています。

12. 森林破壊で自滅した説の今

森林破壊で自滅した説の今

森を切り尽くして自滅したという話は、2005年の『文明崩壊』で広まりました。しかし2024年の研究は石積みの畑から人口を約3000人と推定し、従来の1万5000人説と食い違います。

定説に疑問を投げかける研究が相次いでいるのです。実際の人口激減は1862〜63年、ペルーの奴隷商人による連れ去りと天然痘で起きました。

※1877年には島民が111人まで減りました。森の消失はネズミがヤシの実を食べたためとする説もあります。

出典:コロンビア大学などの研究チーム(Science Advances、2024年)

まとめ

モアイ像は、ただ大きな顔が並んでいるだけの石像ではありません。頭だけに見える像にも胴体があり、かつては白サンゴと黒曜石などでできた目が入っていたこともわかっています。

運び方については、立てたまま揺らして歩かせたという説が注目を集めています。また一度はすべて倒れた像が、日本のクレーンメーカーの協力で再び立ち上がったのも印象深い話でしょう。

森林破壊で自滅したという定説にも、見直しを迫る研究が出てきました。今後の発見しだいで、モアイの物語はまだ書きかえられていくのかもしれません。

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更新日:2026年9月23日(水) 11:55

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