武田信玄の雑学12選!有名な肖像画は別人の可能性があった

よく知られた武田信玄の肖像画は、実は別人を描いたものかもしれません。本名や戦いぶり、トイレや名物のお菓子にも、イメージと違う話が数多くあります。

そんな武田信玄にまつわる雑学を12個ご紹介します。

素顔は本当に信玄なのか

まずは肖像画や名前、トイレや手紙など、信玄の素顔にまつわる話から見ていきましょう。

1. 有名な肖像画は別人かも

有名な肖像画は別人かものイラスト

よく知られたふっくらした姿の肖像画は、高野山成慶院に伝わる長谷川等伯の作とされる絵です。家紋が畠山家の二引両紋であることや等伯が能登出身であることから、描かれたのは畠山義続など能登畠山氏とする説が有力です。

一方、本人に近いとされる高野山持明院の「武田晴信像」は、痩せた体つきで描かれています。

※成慶院は「じょうけいいん」、持明院は「じみょういん」、二引両紋は「ふたつひきりょうもん」と読みます。

2. 信玄は本名ではなかった

信玄は本名ではなかったのイラスト

信玄の本名は晴信です。1536年(天文5年)、室町幕府の将軍・足利義晴から「晴」の字をもらい、晴信と名乗りました。

目上の人が名前の1字を与えるのは偏諱と呼ばれ、名誉なこととされました。「信玄」は、1559年(永禄2年)に出家したあとの法号です。

※偏諱は「へんき」と読みます。法号は「ほうごう」と読み、出家した人が名乗る仏教の名前のことです。

3. 6畳もある水洗トイレ

6畳もある水洗トイレのイラスト

信玄のトイレは御閑所と呼ばれ、京間で6畳もある畳敷きの部屋だったと『甲陽軍鑑』に記されています。香を焚き、風呂の残り湯を樋で流す仕組みで、中で書状を読んだり策を練ったりしたそうです。

きれい好きだったとも伝わりますが、甲陽軍鑑は江戸時代初期の軍学書で、伝え聞いた話も多く含まれます。

※御閑所は「ごかんしょ」と読みます。樋は「とい」と読み、水を流すための溝や管のことです。

出典:甲府市公式サイト

4. 浮気を否定する誓いの手紙

浮気を否定する誓いの手紙のイラスト

1546年(天文15年)、晴信は春日源助にあてて、浮気を否定する誓いの手紙を書いています。弥七郎に何度も言い寄ったものの、腹痛を理由に断られたので関係はないと、神仏に誓う内容です。

この手紙は現在も残っており、東京大学史料編纂所が所蔵しています。

※弥七郎は「やしちろう」と読みます。

※春日源助は、のちの高坂昌信、別名の春日虎綱とする説が一般的ですが、確定しているわけではありません。

出典:東京大学史料編纂所

非情な決断と手痛い敗北

続いては、父や息子との対立、大きな敗北、そして川中島の戦いにまつわる話です。

5. 父を追放して喜ばれた

父を追放して喜ばれたのイラスト

1541年(天文10年)、晴信は父の信虎を駿河へ追い出し、家督を継ぎました。当時の記録『勝山記』には、身分を問わず皆が喜んだと書かれています。

今川氏と示し合わせた追放だったとする説もあります。信虎は甲陽軍鑑などで乱暴な人物とされましたが、近年は甲斐をまとめた功労者として見直されています。

※家督は「かとく」と読み、家の跡継ぎとしての地位のことです。

6. 長男の死は自害か病死か

長男の死は自害か病死かのイラスト

長男の義信は、妻が今川義元の娘だったこともあり、父の駿河攻めに反対しました。1565年(永禄8年)に謀反を疑われて東光寺に閉じ込められ、1567年(永禄10年)に亡くなります。

長く自害とされてきましたが、東光寺の僧が残した香語の内容から、病死とする説も有力です。

※香語は「こうご」と読み、葬儀などで僧が故人に向けて述べる言葉です。

7. 初の大敗で20日動けず

初の大敗で20日動けずのイラスト

1548年(天文17年)の上田原の戦いで、晴信は村上義清に大敗し、傅役の板垣信方や重臣の甘利虎泰を失いました。その後も20日余り陣を動かず、母の大井夫人が使者を送って説得すると、ようやく引き揚げています。

1550年(天文19年)の砥石崩れでも村上軍に大敗し、同じ相手に2度の惨敗を喫しました。

※傅役は「もりやく」と読み、幼いころから教え育てる教育係のことです。

※砥石崩れは「といしくずれ」と読みます。

8. 謙信との一騎打ちは本当?

謙信との一騎打ちは本当のイラスト

1561年(永禄4年)の川中島の戦いでは、斬り込んだ上杉謙信の太刀を、信玄が床几に座ったまま軍配で受けた場面が有名です。ただし甲陽軍鑑などの記録で描写が食い違い、後世の創作の可能性もあります。

長野市の八幡原にある一騎打ちの像は、大河ドラマ「天と地と」の放送を記念して建てられたものです。

※床几は「しょうぎ」と読み、折りたたみ式の腰掛けのことです。軍配は、大将が軍を指揮するのに使ったうちわ形の道具です。

※八幡原は「はちまんぱら」と読みます。

出典:ながの観光コンベンションビューロー

名君ぶりと最期の真相

最後に、法律や治水などの政治の面と、名物のお菓子、そして最期にまつわる話を紹介します。

9. 自分も法に従うと定めた

自分も法に従うと定めたのイラスト

1547年(天文16年)、晴信は領国の決まりとして甲州法度之次第を定めました。この中で晴信自身も法度に縛られるとし、趣旨に反すれば身分を問わず訴え出てよいとしています。

争った双方を同じように罰する、喧嘩両成敗の規定も盛り込まれました。

※甲州法度之次第は「こうしゅうはっとのしだい」と読みます。法度は「はっと」と読み、決まりや法律のことです。

10. 長い年月をかけた信玄堤

長い年月をかけた信玄堤のイラスト

信玄堤は、釜無川と御勅使川の洪水から甲府盆地を守るため、晴信が築かせた堤防です。甲斐市によると、工事には約17年もの歳月がかかりました。

完成したのは1560年(永禄3年)頃です。将棋頭や聖牛で水の勢いを弱める仕組みを持ち、改修を重ねながら今も役目を果たしています。

※御勅使川は「みだいがわ」、聖牛は「せいぎゅう」と読みます。将棋頭は将棋の駒の形をした石積み、聖牛は木を組んだ水よけのことです。

出典:甲斐市公式サイト

11. 信玄餅は本人と無関係

信玄餅は本人と無関係のイラスト

信玄餅は、信玄本人が考えたという確かな記録がありません。桔梗屋の「桔梗信玄餅」は1968年(昭和43年)の発売で、山梨でお盆に安倍川餅を供える風習がもとになっています。

なお「信玄餅」の名は金精軒の商標です。戦の陣中食が由来という話もありますが、俗説の域を出ません。

※金精軒は「きんせいけん」と読みます。陣中食は、戦の陣地で食べる食事のことです。

出典:桔梗屋公式サイト

12. 死を3年隠せと遺言した

死を3年隠せと遺言したのイラスト

信玄は1573年(元亀4年)、信濃の駒場付近で亡くなりました。53歳でした。甲陽軍鑑には、自分の死を3年隠すよう遺言し、弟の信廉が影武者を務めたという話が残ります。

ただ実際には北条氏などが探りを入れており、信玄の死は比較的早く他国に知られていました。

※信廉は「のぶかど」と読みます。影武者は、敵の目をあざむくため主君のふりをする身代わりのことです。

まとめ

武田信玄は、有名な肖像画が別人の可能性があり、「信玄」という名も出家後の法号でした。父の追放や長男の死など非情な面を持つ一方、上田原や砥石では大きな敗北も経験しています。

自らも法に従うと定めた甲州法度之次第や、長い年月をかけて築いた信玄堤からは、領国を治める名君としての姿もうかがえます。

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更新日:2026年9月30日(水) 04:11

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