後醍醐天皇の雑学12選!幻の紙幣を作ろうとした帝

鎌倉幕府を倒し、天皇みずからが政治を動かす世を取りもどそうとした後醍醐天皇。

討幕の計画が二度も露見し、隠岐の島へ流されても、決してあきらめませんでした。しかし、ようやく手にした天皇中心の政治は、わずか2年半ほどで崩れてしまいます。

建武の新政、吉野に開いた南朝、30人を超える子どもたち、そして幻に終わった紙幣の構想まで、その生涯は驚きに満ちています。そんな後醍醐天皇にまつわる雑学を12個ご紹介します。

幕府を倒すまでの執念

鎌倉幕府を倒すまでの道のりは、計画の露見と逃亡の連続でした。折れない姿勢がよく表れた4つの逸話から見ていきます。

1. 自分で決めた贈り名

自分で決めた贈り名

天皇の名は本来、亡くなったあとに周りの人々が選んで贈るものです。「後醍醐」もその追号にあたりますが、この天皇は生前のうちに自分でこの名を用いると決めていたと伝えられています。

理想としたのは、平安時代に力強い政治を行ったとされる醍醐天皇の治世でした。その時代にあやかりたいという思いが、名前の選び方にもあらわれています。

※「追号(ついごう)」は、亡くなった天皇に後からつける呼び名のことです

2. 二度の計画露見

二度の計画露見

1324年の正中の変では、討幕の動きが幕府に伝わり、側近の日野資朝が佐渡へ流されました。天皇自身は関与を否定し、使者を鎌倉へ送って弁明したため、とがめを受けずに済んでいます。

1331年の元弘の変では、側近の密告で計画が露見しました。天皇は三種の神器を持って笠置山で兵を挙げましたが、やぶれて捕らえられています。

※「日野資朝(ひのすけとも)」は後醍醐天皇に仕えた公家です

3. 身代わりを立てて脱出

身代わりを立てて脱出

元弘の変で御所を抜け出すとき、公家の花山院師賢が天皇の身代わりを務めたと伝えられています。師賢は天皇になりすまして比叡山へ向かい、追っ手の目をそちらへ引きつけました。

その間に本人は京都の南東にある笠置山へ逃れ、そこで兵を挙げます。追われる立場でありながら、味方を使って敵の目をそらす手を打っていました。

※「花山院師賢(かざんいんもろかた)」は南朝方として戦った公家です

4. 隠岐からの大脱出

隠岐からの大脱出

1332年に隠岐の島へ流されますが、翌1333年の閏2月には島から脱け出すことに成功します。

太平記によると、天皇は商船の船底に身をひそめ、その上に干した魚を詰めた俵を積んで、追っ手の検査をやり過ごしたといいます。そのまま海をわたって伯耆の国に上陸し、名和長年に迎えられて船上山で兵を挙げました。

※「伯耆(ほうき)」は今の鳥取県中西部、「船上山(せんじょうさん)」はその地にある山です

新政という新しい試み

幕府が倒れたあと、後醍醐天皇は前例にとらわれない政治を始めます。その発想と、うまくいかなかった理由を見ていきます。

5. 朕が新儀は未来の先例

朕が新儀は未来の先例

軍記物語の梅松論は、後醍醐天皇の言葉として「今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべし」を伝えています。今のしきたりも昔は新しいやり方だった、自分が始めることも未来の前例になる、という意味です。

古い慣習にとらわれず、良いと信じたことを進めようとする姿勢が表れた一言として知られています。

※「新儀(しんぎ)」は新しいやり方、「先例(せんれい)」は後の手本になる前の例のことです

6. 幻に終わった紙幣の計画

幻に終わった紙幣の計画

後醍醐天皇は、焼けたままだった大内裏を建て直そうとし、その費用を集めるために新しいお金の仕組みを考えました。

銅の銭である乾坤通宝と、楮の紙で作る紙幣を組み合わせて使う構想で、銭を造る役所の長官まで任命されています。しかし建武の新政が崩れたことで計画は止まり、乾坤通宝は今も一枚も見つかっていません。

※「大内裏(だいだいり)」は天皇の住まいと役所が集まった区画、「乾坤通宝(けんこんつうほう)」は計画された銭の名前です

7. 約2年半で崩れた政治

約2年半で崩れた政治

1333年、天皇みずからが政治を動かす建武の新政が始まりました。しかしこの体制は、1336年の秋にはもう崩れています。

戦った働きに見合う恩賞が届かないという不満が武士のあいだに広がり、土地をめぐる裁きも混乱しました。1335年に足利尊氏が背を向けたことで対立は決定的になり、新政は2年半ほどで終わりを迎えます。

吉野の南朝とその後

京都を追われてからも、後醍醐天皇は正統な天皇であり続けようとしました。晩年の姿と、その死後に残ったものを紹介します。

8. 吉野に開いた南の朝廷

吉野に開いた南の朝廷

1336年12月、京都を追われた後醍醐天皇は、奈良県南部の険しい山あいにある吉野へと逃れました。

そこで独自の朝廷を開き、京都の北朝と向き合う南朝が生まれます。この対立は1392年に二つの朝廷が一つにまとまるまで、およそ55年にわたって続きました。後醍醐天皇自身は、亡くなるまでの3年近くをこの吉野で過ごしています。

9. 神器こそ正統の証し

神器こそ正統の証し

1336年、後醍醐天皇はいったん足利方が立てた光明天皇に三種の神器を渡して和睦しました。ところが吉野へ移ると、渡したものは偽物で本物は自分の手元にあると主張し始めます。

皇位を受けついだ証しとされる神器を持っているのは自分だ、だから正統な天皇は自分だ、という訴えでした。

※「三種の神器(さんしゅのじんぎ)」は鏡・剣・玉のことです

10. 三十人を超える子ども

三十人を超える子ども

後醍醐天皇は子だくさんの天皇として知られ、皇子と皇女を合わせて32人とする説のほか、40人近いとする説もあります。

多くの皇子が各地に散って戦ったことが、その後の南北朝の争いを長引かせました。天台座主から征夷大将軍になった護良親王、九州で南朝方の勢力を築いた懐良親王などが知られています。

※「護良親王(もりよししんのう)」「懐良親王(かねよししんのう)」はいずれも後醍醐天皇の皇子です

11. 僧の姿で描かれた肖像画

僧の姿で描かれた肖像画

神奈川県の清浄光寺には、他に例のない後醍醐天皇の肖像画が伝わっています。天皇の装束の上から袈裟をまとい、両手に密教の法具を持ち、仏や菩薩が座る蓮の花の台に座った姿で描かれているのです。

天皇でありながら密教の僧そのものの姿で、亡くなった年に描かれたと考えられています。国の重要文化財に指定されています。

※「清浄光寺(しょうじょうこうじ)」は藤沢市にある時宗の総本山で、遊行寺とも呼ばれます

12. 敵が建てた供養の寺

敵が建てた供養の寺

1339年、後醍醐天皇は京都を取りもどせないまま亡くなりました。その霊はやがて人々から恐れられるようになります。

対立していた足利尊氏は、崩御の翌年、夢窓疎石のすすめで京都の嵯峨に天龍寺を建て、後醍醐天皇の菩提を弔いました。造営の費用は元へ送った貿易船の利益でまかなわれ、1345年に落慶を迎えています。

※「夢窓疎石(むそうそせき)」は尊氏が深く信頼した禅僧です

まとめ

後醍醐天皇は、二度の計画露見や隠岐への流罪にも折れず、鎌倉幕府を倒して天皇中心の政治を実現しました。

しかし建武の新政は2年半ほどで崩れ、吉野へ移ってからは約55年に及ぶ南北朝の対立が始まります。紙幣の構想や、密教の僧の姿で描かれた肖像画にも、前例にとらわれない性格があらわれていました。

京都を取りもどせないまま世を去りましたが、対立していた足利尊氏が天龍寺を建てて供養したところに、この天皇が周囲に残した印象の強さがうかがえます。

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更新日:2026年9月9日(水) 12:45

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