応仁の乱の雑学11選!理由を忘れた11年戦争

日本の歴史で最も有名な大乱のひとつ、応仁の乱。

1467年に京都で始まり、なんと11年もの長きにわたって続いた末に、はなやかだった都を一面の焼け野原へと変えてしまいました。

きっかけは将軍家の跡継ぎ問題でしたが、いつしか戦う理由すらあいまいになり、はっきりとした勝敗もつかないまま静かに幕を閉じます。

武将たちの思惑から、富を築いた将軍の妻の話まで、そんな応仁の乱にまつわる雑学を11個ご紹介します。

1. ひとよむなしの年号

応仁の乱は1467年に始まった大きな戦いで、「ひとよむなし」という語呂合わせで覚えられています。

西暦の数字を順に読むと1467となり、何ともむなしい響きですが、長く続いた乱の悲しい結末を言い当てているようで、今でも覚え方として広く親しまれているそうです。

2. 十一年に及ぶ大乱

応仁の乱はおよそ11年もの長きにわたって続き、主な戦場となったのは当時の都だった京都でした。

これほど長く続いた争いは日本の歴史のなかでも珍しく、はなやかだった都の町は戦いのなかで少しずつ荒れ果てていき、やがて見る影もなくなっていったと深く伝えられています。

3. 将軍の跡継ぎ問題

争いの大きなきっかけのひとつは、8代将軍の足利義政に世継ぎがいなかったことだといわれています。

弟(足利義視)を後継ぎに決めた後になって実の子(足利義尚)が生まれてしまい、いったい誰が次の将軍の跡を継ぐのかをめぐって、周囲の人々を深く巻き込みながら対立が一気に深まっていきました。

4. 畠山家の家督争い

原因は将軍家だけではなく、有力な武家であった畠山家の跡目をめぐる争いも大きかったとされています。

家督とは家を継ぐ立場のことで、いくつもの有力な家(畠山氏や斯波氏など)のもめ事が同じ時期に重なり合ったことで、対立はいっそう複雑にこじれ、もう解きほぐせなくなっていったようです。

5. 東軍と西軍に分裂

戦いは大きく二つの陣営に分かれ、東軍を細川勝元が、西軍を山名宗全がそれぞれ率いることになりました。

多くの武将がどちらかの側に付いて激しく争ったため、やがて都全体を東と西に大きく二分するような、たいへん大きく入り組んだ複雑な戦いへと発展していったのです。

6. 理由が分からぬ戦い

戦いに参加する人がどんどん増えていくにつれて、当初の対立の理由はしだいにあいまいになっていきました。

やがて実際に戦っている当事者でさえ、自分たちが一体なぜ争っているのかすらよく分からなくなってしまった、ともいわれているほど、ひどく混乱していたようです。

7. 足軽が戦いの主役

戦いの中心となったのは、おもに農民から集められた足軽という軽装の兵たちでした。

足軽は都への愛着がそれほど強くなかったため、町の中での容赦のない略奪や放火、破壊が次りと広ってしまい、被害をさらに大きくしてしまった一因にもなったとも深く伝えられています。

8. 焼け野原になった都

長く続いた戦いのなかで、かつてはなやかだった京都の町は、まるで一面の焼け野原のようになってしまいました。

数多くの寺社や貴族の屋敷が焼け落ちてしまい、そこで暮らす人々のふだんの生活も大きく傷つき、もとに戻るまでに長い時間がかかったと深く伝わっています。

9. 勝敗のつかぬ結末

これほど長い年月をかけて激しく争ったにもかかわらず、応仁の乱でははっきりとした勝敗がつきませんでした。

そもそものきっかけだった跡継ぎや家督の問題も結局は解決しないまま、最後は何となくうやむやのうちに、ひっそりとそっと幕を閉じていったと考えられています。

10. 西軍撤退で幕引き

1477年に西軍が京都から兵を引いたことで、長く続いた大きな戦いはようやく事実上の終わりを迎えました。

ただし、その後も各地ではくすぶるように小さな争いがしばらくの間は残り続けてしまい、けっしてすっきりと終結したわけではなかったと考えられています。

11. 富子の見事な蓄財

将軍の妻であった日野富子は、高利貸しや米相場などにも手広く関わり、ばく大な富を築いたといわれています。

そのため守銭奴のように語られることもありますが、彼女の築いた財が戦いで荒れ果ててしまった都ののちの復興に大いに役立った面もあったと考えられています。

更新日:2026年6月23日(火) 01:40

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