鎌倉時代の雑学16選!いい国つくろうはもう古い

鎌倉幕府ができたのは1192年、と習った方は多いはずです。ところが今の教科書の多くは、成立年を1つに決めていません。有名な13人の合議制にも、実は合議した記録がないのです。

鎌倉時代は、源頼朝が東国に武家政権を築いてからおよそ150年続き、武士が政治の中心に立った時代です。戦い方や暮らしぶりも含め、その姿は近年の研究でずいぶん見直されてきました。

そんな鎌倉時代にまつわる雑学を16個ご紹介します。

鎌倉幕府が固まるまで

鎌倉幕府は、ある1年で完成したわけではありません。頼朝の挙兵から北条氏による政治の仕組みづくり、そして法の整備まで、数十年をかけて形が整っていきました。

1. 1192年説はなぜ揺らいだか

1192年説はなぜ揺らいだか

「いい国つくろう」の語呂合わせで、1192年を鎌倉幕府の成立年と覚えた方も多いでしょう。源頼朝が征夷大将軍に任じられた年です。

近年は1185年の守護・地頭の設置を重く見る説も広まりましたが、これが主流とも言い切れません。教科書の多くは成立年を1つに決めず、帝国書院の年表は両時代の境目を斜線で示しています。

※「守護」は国ごとに置かれた軍事や警察の役、「地頭」は荘園などを管理する役のことです。

2. 13人は合議していなかった

13人は合議していなかった

有力な御家人13人が話し合いで政治を動かした、と長く説明されてきました。しかし歴史学者の坂井孝一さんによると、どの史料にも13人が合議した記述はありません。

実際は鎌倉殿への直訴を止め、取り次ぎ役を13人に限る制度でした。若い源頼家から決定権を奪うためではなく、当主を支える仕組みだったとみられます。

※「御家人」は将軍に仕えた武士、「鎌倉殿」は鎌倉幕府の主のことです。

3. 北条氏はどう実権を得たか

北条氏はどう実権を得たか

北条氏の転機は1203年です。比企能員が殺されたあと、北条時政が源実朝を将軍に立て、自分1人の署名で命令書を出すようになりました。

ただし当時は執権という役職はなく、時政は将軍の後見という立場でした。執権を中心とする政治が制度として固まるのは、孫の北条泰時が1225年に連署と評定衆を置いてからです。

※「比企能員」は「ひきよしかず」と読みます。

※「執権」は将軍を助けて政治を行う役職、「後見」は主人の代わりに政治を見る役のことです。

※「連署(れんしょ)」は執権を補佐する役職、「評定衆(ひょうじょうしゅう)」は政治や裁判を話し合いで決める会議です。

4. 1か月で決した承久の乱

1か月で決した承久の乱

1221年、後鳥羽上皇が北条義時を討てと命じて兵を挙げました。幕府は攻められた側で、朝廷を倒そうとして始めた戦いではありません。

幕府は大軍を京都へ送り、宇治川の戦いで上皇の軍を破って、挙兵から1か月ほどで勝ちを決めました。乱のあと幕府は京都に六波羅探題を置き、西国の御家人や朝廷の動きを見張らせます。

※「上皇」は位をゆずった元の天皇のことです。

※「六波羅探題(ろくはらたんだい)」は幕府が京都に置いた出先機関、「西国(さいごく)」は西日本のことです。

5. 武士が作った最初の法典

武士が作った最初の法典

1232年、北条泰時を中心に御成敗式目が作られました。全51条からなり、武家政権が初めて定めた本格的な法律です。

ただし効力が及ぶのは御家人の世界に限られ、朝廷や貴族、寺社の支配には口を出さないと式目自身が記しています。式目は幕府が滅んだあとも読みつがれ、江戸時代には寺子屋で文字を習う手本に使われました。

※「御成敗式目」は「ごせいばいしきもく」と読みます。

※「寺子屋」は江戸時代に子どもが読み書きを習った場所のことです。

武士たちが生きた現実

ここからは、鎌倉時代の武士がどんな約束のもとで生き、どう戦ったのかを見ていきます。食事や借金の事情にも、物語とは違う一面があります。

6. 土地で結ばれた主従関係

土地で結ばれた主従関係

鎌倉幕府の土台は、将軍と御家人が結ぶ御恩と奉公の関係でした。御恩の中心は、先祖からの土地を認める本領安堵と、新しい土地を与える新恩給与です。

奉公は戦だけでなく、京都や鎌倉の警備、御所の修理費の負担など平時の務めも含みました。

ところが守るだけの戦いだった元寇では、勝っても分け与える土地がありません。この行き詰まりが、幕府を弱らせる一因になりました。

※「本領安堵」は「ほんりょうあんど」、「新恩給与」は「しんおんきゅうよ」と読みます。

※「御恩」は将軍が御家人に与える保護や土地、「奉公」は御家人が将軍のために務める働きのことです。

7. 一騎討ちはむしろ例外

一騎討ちはむしろ例外

当時の武士は、馬の上から弓を射る騎射を中心に戦いました。名乗りを上げて一騎討ちをするのが作法だったという見方は、『平家物語』などが広めたイメージです。

戦場では、両軍が楯を並べて矢を射合うことから始まる集団戦でした。武具の研究者の近藤好和さんも、騎射戦が一騎討ちを意味するわけではないと指摘しています。

※「騎射」は「きしゃ」と読みます。

8. 神風伝説と2度の元寇

神風伝説と2度の元寇

元寇は文永の役と弘安の役の2度あり、神風が吹いたと語られてきました。ただ確かなのは弘安の役の台風で、天草の大蛇池の湖底から13世紀の台風の痕跡が見つかっています。

文永の役の嵐は史料で確かめにくく、あっても季節的に台風ではありません。

神風の話は、寺社が祈祷の成果を訴えた『八幡愚童訓』などが元になっていて、小学校の教科書に載るのは1934年以降です。

※「大蛇池」は「だいじゃいけ」、「祈祷」は「きとう」と読みます。

※『八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)』は八幡神の力を説いた書物です。

9. 武士の食事は1日2食

武士の食事は1日2食

鎌倉時代の武士の食事は、朝と夕方の1日2食が基本でした。玄米を1日5合ほど食べたといわれ、おかずは焼き塩や梅干し、焼き魚くらいと質素です。

主食は米を蒸して作る固めのご飯で、強飯と呼ばれます。昼にも食事をとる習慣は、室町時代ごろから広まっていきます。

※「強飯」は「こわめし」と読みます。

10. 借金帳消し令の大失敗

借金帳消し令の大失敗

1297年、幕府は御家人を救うため永仁の徳政令を出しました。御家人の土地の売買や質入れを禁じ、売った土地はただで取り戻せるとしたのです。

ところが返ってこないと知った金融業者は、御家人にお金を貸さなくなります。翌1298年には売買や質入れの禁止が取り消され、土地を取り戻せる決まりだけが残りました。

※「永仁(えいにん)」は当時の年号、「徳政令」は借金の帳消しなどを命じる法令のことです。

町と文化、そして幕府の最期

最後は鎌倉の町の造りやお金、酒をめぐる決まりから仏教や仏像の話まで取り上げます。そして幕府が滅びるまでをたどります。

11. わざと狭く作った切通し

わざと狭く作った切通し

鎌倉は三方を山に囲まれ、一方が海に面した町です。外へ通じる道は山を削った切通しで、人が1人か2人しか通れないほど狭いものが多くありました。

狭い道は戦のときにすぐ塞げて、崖の上から矢を射かけることもできました。

鎌倉七口という出入口の呼び名は当時のものではなく、京都の七口をまねた江戸時代以降の言い方です。

※「切通し(きりどおし)」は、山を掘り割って通した道のことです。

※「鎌倉七口」は「かまくらななくち」と読みます。

12. 日本のお金は中国製だった

日本のお金は中国製だった

鎌倉時代に使われた銭は、ほとんどが中国から輸入した宋銭でした。朝廷は初めこれを認めず、日本で造ったお金ではないとして1193年に流通停止令を出しています。

それでも人々が使うのは止まらず、1226年には幕府が使用を認めました。国が禁じた外国のお金が、事実上の国内通貨になったのです。

※「宋銭(そうせん)」は中国の宋の時代に造られた銅銭のことです。

13. 幕府が酒壺を叩き割った

幕府が酒壺を叩き割った

1252年、鎌倉幕府は沽酒禁制という酒の販売禁止令を出しました。鎌倉じゅうの民家の酒壺を調べ、各家に1つだけ残して約3万7千個を割らせたと『吾妻鏡』に記されています。

背景には、飢饉や酒をめぐるもめごとがあったようです。中世の鎌倉の人口を記した史料はなく、この壺の数は町の規模を知る手がかりにもなります。

※「沽酒(こしゅ)」は酒を売ること、「飢饉(ききん)」は作物が実らず食べ物が足りなくなることです。

14. 鎌倉新仏教は少数派だった

鎌倉新仏教は少数派だった

浄土宗や禅宗、日蓮宗は教えが分かりやすかったから一気に広まった、という説明は近年見直されています。歴史学者の平雅行さんによると、当時の仏教勢力はおよそ7割が旧来の顕密仏教で、新しい宗派は少数派でした。

これらの宗派が大きな教団に育つのは、もう少し後の時代です。

※「顕密仏教(けんみつぶっきょう)」は、天台宗や真言宗など平安時代から力を持っていた仏教のことです。

出典:大阪大学(2006年)

15. 金剛力士像は69日で完成

金剛力士像は69日で完成

東大寺南大門の金剛力士像は1203年、着手からおよそ69日で完成したと伝わります。口を開いた阿形は快慶、口を閉じた吽形は運慶の作とされてきました。

平成の解体修理で見つかった文書から、阿形は運慶と快慶、吽形は定覚と湛慶が中心と分かりました。小仏師も20人以上加わり、運慶が全体をまとめたと考えられています。

※「阿形」は「あぎょう」、「吽形」は「うんぎょう」と読みます。

※「定覚」は「じょうかく」、「湛慶」は「たんけい」と読みます。

※「小仏師」は、中心となる仏師の下で彫刻を手伝う仏師のことです。

16. 挙兵から1か月足らずで滅亡

挙兵から1か月足らずで滅亡

のちの尊氏である足利高氏が後醍醐天皇の呼びかけに応じ、1333年に兵を挙げて六波羅探題を落としました。新田義貞が鎌倉へ攻め込み、北条高時らが自害して幕府は滅びます。

高氏の挙兵から1か月足らずのことでした。義貞が太刀を投じて潮を引かせた稲村ヶ崎の話は伝説で、実際は引き潮を狙って渡ったとする説が有力です。

※「稲村ヶ崎」は「いなむらがさき」と読みます。

まとめ

鎌倉時代は、幕府の成立年すら1つに決めきれないほど、少しずつ形が整っていった時代でした。13人の合議制に合議の記録がないことなど、教科書で習った姿と研究が描く姿には思った以上にずれがあります。

一方で、輸入した宋銭が国内のお金として広く使われていたように、当時の人々の暮らしぶりが分かる記録も数多く残っています。制度の話と暮らしの話をあわせて見ると、およそ150年続いた武士の時代がぐっと身近になるはずです。

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更新日:2026年9月30日(水) 03:19

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