天下人として江戸幕府を開き、260年にも及ぶ平和の礎を築いた徳川家康。戦国時代を勝ち抜いた「完璧なリーダー」というイメージが強い彼ですが、その実像は驚くほど個性的で、現代の私たちにも通じる意外な人間味に溢れています。
今回は、最新の研究で明らかになった新事実や、家康の知られざる「意外な素顔」を10のトピックに分けて詳しくご紹介します。これを読めば、歴史上の偉人がもっと身近に感じられるはずです。
1. 幼少期の人質生活が忍耐強さを育てた

今川や織田のもとで過ごした過酷な人質時代は、家康に驚異的な忍耐力と、周囲の顔色を読み解く高度な外交感覚を植え付けました。
この時期の苦労こそが、後に好機をじっと待つ「鳴くまで待とう」の精神的な土台となったのです。
2. 家康の身長と意外な体格

家康の身長は、遺品の甲冑や位牌の大きさから約159センチと推定されます。
当時の平均よりやや高い程度ですが、晩年は肥満気味で腹回りが120センチ近くあったという記録もあり、武将というよりは意外にどっしりした福よかな体格だったようです。
3. 自ら調合までする薬オタク

家康は生薬に精通し、自ら薬を調合する「薬オタク」で、海外の薬学書も取り寄せ自作の薬を愛用するほどでした。
晩年は自身の知識を過信するあまり、医師たちの献身的な診察を頑なに拒絶し続け、適切な治療が大幅に遅れて衰弱を早めたとも言われています。
4. 麦飯と鷹狩りで自己管理をしていた

家康は健康オタクでもあり、白米より栄養価の高い麦飯を主食とし、生涯鷹狩りを趣味としました。
鷹狩りは単なる娯楽ではなく、野山を駆け足腰を鍛える軍事演習を兼ねた運動であり、徹底した自己管理が当時としては異例の75歳の長寿を支えたのです。
5. しかみ像は悔しがっているんじゃない?

敗戦の醜態を戒めるため描かせたと伝わるしかみ像ですが、近年の研究では異説が有力です。
実は三方ヶ原の戦いとは無関係で、後世に物語として結びつけられた可能性が高く、実際は全く別の意図で描かれたという説が注目されています。
6. 死因は胃がんだった

家康の死因は長く「鯛の天ぷらによる食中毒」とされてきましたが、発症から死去まで3ヶ月以上あるため、現在は「胃がん」説が有力です。
鯛の天ぷら自体は当時まだ珍しい高級料理で、この美食への好奇心が結果的に病を加速させた可能性は十分にあります。
7. 秀吉の遺言をめちゃくちゃ破った

秀吉の死後、家康は「大名同士の婚姻禁止」などの遺言を次々と公然と破り、自らの勢力を急速に拡大しました。
これは単なる野心だけではなく、自らが絶対的な主導権を握るための高度な政治的計算であり、関ヶ原の戦いへ至る非常に巧妙な布石となったのです。
8. 時計や鉛筆を愛用していた

家康は非常に好奇心が強く、スペイン国王から贈られた機械式時計や、日本最古と言われる鉛筆などの貴重な南蛮文化を大切に保管していました。
こうした最新技術をいち早く取り入れる柔軟な姿勢こそが、後の江戸時代における平和な統治の礎として活かされたのです。
9. 英国人の外交の顧問がいた

三浦按針の名を与えられた英国人アダムスは、家康の外交顧問として深く重用されました。
家康は彼の優れた数学や造船技術を高く評価し、形式にとらわれず異国の最先端の知識を積極的に吸収することで、朱印船貿易などのダイナミックな国際政策を強力に推進したのです。
10. 築山殿と信康の切腹事件

織田信長の命により、正室・築山殿と嫡男・信康を処刑したとされる事件は、徳川家最大の悲劇です。
しかし近年では、信長の命令ではなく、派閥抗争や家康との対立など徳川家内部に真の要因があったとする新説が有力視されており、歴史的な謎が深まっています。
更新日:2026年1月9日(金) 05:11

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