吉原遊郭の雑学12選!「3回通う」は俗説だった
吉原は、江戸で唯一の幕府公認の遊郭でした。周囲を堀で囲まれ、外へ出る道は大門ただ1か所。中では独特の言葉が話され、通りには春になると桜が運び込まれました。
華やかに語られる一方で、そこは遊女たちが借金と年季に縛られて暮らす場所でもあります。街は何度も焼け落ち、明治の解放令を経てもなお、完全に姿を消したのは1958年でした。そんな吉原にまつわる雑学を12個ご紹介します。
囲われた街のなりたち
まずは、吉原がどこにどうやって作られ、どんな街だったのかを見ていきます。中の決まりごとには、今も語り継がれている有名な話も混ざっています。
1. 江戸城に近すぎて移された街
吉原が幕府に公認されたのは1617年で、場所は日本橋葺屋町、今の日本橋人形町のあたりでした。ところが江戸の市街地が広がるにつれて立ち退きを命じられ、1657年の明暦の大火をきっかけに、浅草寺裏の日本堤、現在の台東区千束へ移されます。
移転後の広さは約2万坪から2万8000坪ほどと資料によって幅がありますが、いずれにしても町ひとつぶんの規模です。吉原という名は、葦の茂る湿地だったことから葭原と呼ばれ、のちに縁起のよい字に改めたものという説があります。
※「葭原(よしわら)」の葭は、水辺に生える葦のことです
2. 出入口は大門ただ1か所
吉原の周囲は堀で囲まれ、出入口は大門と呼ばれる1か所だけでした。遊女の逃亡を防ぐためのつくりです。堀の幅は当初は9メートルほどあり、しだいに狭められ、明治36年ごろには90センチほどになっていたといいます。
堀はお歯黒どぶと呼ばれます。遊女が歯を染めるお歯黒を流したから、という説がありますが、確かではありません。大門の脇の面番所では、同心が出入りを見張りました。大名も駕籠を降りて歩いて入る決まりで、駕籠のまま通れたのは医者だけだったといわれます。
※「面番所(めんばんしょ)」は、大門脇に置かれた見張り所です
3. 太夫は江戸から姿を消していた
吉原の最高位だった太夫は、1643年に18人いましたが、1744年に5人、1751年には1人となり、1760年代には江戸から姿を消したと伝えられます。いっぽう京都の島原には、太夫の位がその後も残りました。
太夫が絶えたあと最上位になったのが散茶で、この位の遊女が花魁と呼ばれます。散茶という名は、茶を振り出さずに飲むことにかけて「客を振らない」という掛け言葉から来たという説があります。花魁道中で足を外側へ回して歩く外八文字は、吉原ならではの歩き方として知られています。
※「散茶(さんちゃ)」は、太夫が絶えたあとの最上位の遊女です
4. 3回通う決まりは俗説だった
吉原には初会、裏を返す、馴染みという3段階の作法があり、同じ遊女のもとへ通ううちに親しくなる仕組みです。ここから「3回通わないと肌を許してもらえない」という話が広まりました。
ところが、これを裏づける史料は見つかっていません。江戸文化を研究する永井義男は、史料的な裏づけのない俗説だと指摘しています。2回も空振りの金を払わせては商売が成り立たないうえ、春画の描写とも合わないと永井は見ています。作法は実在しても、厳しい掟ではなかったようです。
吉原が生んだ文化と流行
吉原は遊びの場であると同時に、江戸の流行が生まれる場所でもありました。案内書や言葉づかい、季節の景色にもその工夫が表れています。
5. 蔦屋重三郎を育てた吉原細見
吉原細見は、遊女の名前や揚代を一覧にした案内書です。江戸中期から明治にかけて長く出続け、吉原を訪れる人の必需品でした。
この細見で頭角を現したのが蔦屋重三郎です。1775年の秋から『籬の花』の名で刊行を始め、平賀源内ら人気の書き手に序文を頼んで評判を取りました。当時の細見は鱗形屋という版元が握っていましたが、他人の本を無断で刷る事件を起こして力を落とします。その隙をついた蔦重は1783年1月に細見を出す権利を買い取り、刊行を独占しました。
※「揚代(あげだい)」は、遊女を呼ぶための料金のことです
6. ありんすは訛り隠しだという説
吉原の遊女は「ありんす」に代表される独特の言い回しを使いました。廓詞と呼ばれるもので、吉原はありんす国と呼ばれることもあります。
この言葉づかいが生まれた理由は、各地から売られてきた娘たちの訛りを隠し、どの客にも同じように接することができるようにという配慮からといわれています。訛りで出身地が知れれば身の上も察せられますし、聞き取りにくさは商いの妨げにもなります。街ぐるみで作られた共通語のようなもので、吉原が外と切り離された場所だったと分かります。
※「廓詞(くるわことば)」は、遊郭で使われた独特の言葉づかいです
7. 桜並木は毎年の使い捨てだった
吉原のメインストリートである仲の町には、春になると桜が咲きそろいました。ところがこの桜は植えられたものではありません。江戸中期ごろから、毎年2月の末に根つきの桜を運び込んで並べ、花が散る3月の晦日にはすべて抜き去っていたのです。
『江戸名所花暦』や『守貞漫稿』には、数千本という規模で記されています。費用はおよそ150両かかり、茶屋が5分の1、遊女が5分の2、見番が5分の2を負担したと伝えられます。街の見どころそのものを毎年つくり直していたことになります。
※「見番(けんばん)」は、芸者の手配などを行った事務所です
遊女の暮らしと街の終わり
ここからは、華やかさの裏側にあった仕組みと、吉原という街が消えるまでを追います。
8. 紋日は遊女が自腹を切る日
紋日は、五節句などの年中行事にあたる特別な日のことです。この日は揚代が倍額になり、吉原がもっとも華やぐ日でもありました。ところが遊女には重い日でした。客がつかないと自分で揚代を納める身揚がりという扱いになり、衣装代も自分持ちだったからです。
紋日の日数は時期によって大きく動きます。1689年には27日でしたが、1728年には94日、1775年から1787年ごろは84日にのぼり、年に90日以上が紋日という時期もありました。のちに整理され、1797年には18日まで減っています。
※「紋日(もんび)」は、揚代が倍になる特別な日のことです
出典:『日本史小百科 遊女』『青楼年暦考』などにもとづく集計
9. 年季は10年、明けても終わらず
遊女の年季は原則として最長10年、27歳までと定められていました。ただしこれは建前で、そのとおりに勤め上げて外へ出られるとは限りません。禿として幼いうちに買われた娘は客を取り始めてから10年と数えられ、借金が残れば年季を延ばされたり別の店へ移されたりしました。
東京都荒川区にある浄閑寺は、投込寺と呼ばれています。1855年の安政の大地震で亡くなった新吉原の遊女たちが、投げ込むように葬られたことに由来する呼び名です。境内には新吉原総霊塔が建てられています。
※「禿(かむろ)」は、遊女の身の回りを世話した少女です
※「浄閑寺(じょうかんじ)」は、荒川区南千住にある寺です
10. 200年で20回近く焼け落ちた街
吉原は驚くほどよく燃えました。延宝4年から慶応2年までの191年間に22回焼けたという数え方があり、1657年から1866年までの約210年間に18回全焼、およそ11年に1回とする集計もあります。数え方で差はありますが、およそ200年で20回前後、街ごと焼け落ちた計算になります。
木造の妓楼が密集し、夜どおし行灯の灯りを使い続ける街ですから、火の気が絶えることはありませんでした。
11. 焼けたあとの仮宅というしくみ
吉原が焼けても、遊郭は休業しませんでした。今戸や橋場、山谷、両国、深川永代寺門前佃町といった場所で、臨時に店を開くことが許されたのです。これが仮宅で、250日、300日と期日を区切って認められたと伝えられます。
仮宅には本来の吉原のような格式ばった作法がなく、気軽に遊べたため、本家よりも賑わったといわれます。それならいっそ焼けたほうがよいと考えた者もいた、という見方もありますが、確かなことは分かりません。14歳の遊女が火を付けた事件も記録に残っています。
※「仮宅(かりたく)」は、焼失後に開いた仮の店のことです
12. 解放されたのに消えたのは1958年
1872年、明治政府は芸娼妓解放令を出しました。人身売買が問題になったマリア・ルス号事件がきっかけで、遊女は借金ごと解き放たれるはずでした。ところが翌年には貸座敷という名目での営業が認められ、実態は大きく変わりません。吉原が完全に姿を消したのは、売春防止法の罰則が施行された1958年のことでした。
関東大震災では、600人の遊女が弁天池で亡くなったと長く語り継がれてきました。ただし1か月後の新聞は、遊女の死者は88名、うち花園池では30名と訂正しています。
※「貸座敷(かしざしき)」は、部屋を貸す形で営業を続けた店です
出典:東京都公文書館の解説、東京新聞ほかの報道
まとめ
吉原は、堀と大門で外から切り離された街でした。太夫が消えて花魁が生まれ、桜は毎年運び込まれては抜き去られ、細見という案内書が名高い版元を育てています。
華やかな面はよく知られていますが、その裏では紋日の自腹や年季の延長といった仕組みが遊女を縛っていました。何度焼けても仮宅で商いを続け、解放令のあとも貸座敷と名を変えて残ります。街が完全に消えたのは1958年で、公認から数えて340年あまりでした。浄閑寺や吉原観音は今も残っていますので、機会があれば訪ねてみてください。