坂本龍馬の雑学11選!死後37年間ほぼ無名だった男
幕末の英雄として語られる坂本龍馬ですが、その人物像には後の時代につくられた部分も少なくありません。
暗殺の黒幕をめぐる話は近年になって見方が大きく変わり、亡くなってからしばらくの間はほとんど忘れられた存在だったとも言われます。
かと思えば、旅先の山頂で神話の宝器を引き抜いてしまうような、思わず笑ってしまう素顔ものぞきます。
教科書やドラマの印象とは少し違う、そんな坂本龍馬にまつわる雑学を11個ご紹介します。
1. 黒幕はいなかったという説
慶応3年11月15日、京都の近江屋で中岡慎太郎とともに襲われ、命を落としました。
実行犯は京都見廻組だとする見方がほぼ定説で、動機は前年の寺田屋事件で捕吏を殺傷して逃げた件の捕縛だったとされ、近年では黒幕などいなかったという説が主流になりつつあります。
2. 新婚旅行は日本初ではない
慶応2年1月の寺田屋事件で手指に大けがを負い、同じ年の旧暦3月に妻のお龍と鹿児島の温泉を巡りました。
日本初の新婚旅行と呼ばれますが、これは明治の伝記『汗血千里駒』が広めた呼び名で、40年以上前に梁川星巌夫妻の例もあり、日本初とは言い切れないようです。
3. 武器と米を交換させた男
慶応元年に長崎で亀山社中を結成し、武器を買えない長州のため薩摩名義でミニエー銃4300挺などを調達し、見返りに長州の米を薩摩へ回しました。
報酬は軍艦ユニオン号の運用権で、この取引が翌年の薩長同盟につながったのですから、理想家であり商売人でもありました。
4. 給料は自分で稼げの規約
日本初の商社と呼ばれる海援隊ですが、実態は脱藩浪士の集団で、規約にも本藩や他藩を脱した者が入ると書かれています。
給与は銭量常ニ之ヲ給セズ、其自営自取ニ任スとあり、要は自分で稼げということで、月3両2分の手当が出た亀山社中時代より待遇は下がりました。
5. 身長は170センチ台か
実測の記録はなく、証言も田中光顕が5尺7寸、関義臣が5尺8寸、信太歌之助が5尺9寸とばらつき、およそ173から179センチの幅があります。
京都国立博物館の紋服からは170センチより少し大きい程度と見られ、当時の成人男性の平均は155センチほどなので、かなりの大男です。
6. 高杉から贈られた拳銃
高杉晋作から贈られたスミス&ウェッソンのモデル2アーミー、32口径6連発の銃を持ち、慶応2年の寺田屋事件でこれを撃って逃げ延びたと伝わります。
ただしその銃は事件のどさくさで失われ、のちに手にした別のモデル1を妻のお龍と1挺ずつ持っていたとも伝えられています。
7. 姉に宛てた139通の手紙
今に残る龍馬の手紙はおよそ139通で、その中で最も宛先として多いのが故郷にいる姉の坂本乙女でした。
ユーモラスな絵を添えながら近況を知らせており、日本を今一度せんたくいたし申候というよく知られた一節も、文久3年6月29日付で乙女に宛てた手紙の中に出てきます。
8. ブーツを2足持っていた
紋付袴にブーツという姿は龍馬の代名詞ですが、理由を記した史料はなく、実用性説や新しもの好き説、身分制度への反発説などが語られます。
確かなのはブーツ姿の写真が2枚あり、立ち姿はつま先が反り返り、座り姿は足に沿った形で、少なくとも2足持っていたことです。
9. 死後37年ほぼ無名だった
亡くなったあとの龍馬は、しばらくほとんど忘れられた存在でした。
ところが明治37年、昭憲皇太后の夢枕に白衣の武士が立ち帝国海軍を護り奉ると告げ、翌日に香川敬三が写真を差し出すと夢で見た人だと確認された話が時事新報に載り、一躍国民的な英雄になったのです。
10. 船中八策は原本が残らず
教科書やドラマでおなじみの船中八策ですが、原本も同じ時代の写本も一つも残っていません。
2013年の知野文哉『「坂本龍馬」の誕生』は明治以降の伝記の中で少しずつ形づくられたものだと指摘しており、今は龍馬自筆の新政府綱領八策を拠り所とする見方が主流です。
11. 神話の宝器を引き抜いた
慶応2年の霧島旅行で高千穂峰に登った龍馬は、山頂に立つ神話の宝器、天の逆鉾をお龍と2人がかりで引き抜いてしまいます。
しかもその一部始終を姉の乙女に宛てた手紙に絵入りで報告しており、その形、たしかに天狗の面なりというスケッチ付きの感想まで残しました。