足利尊氏に関する豆知識

足利尊氏は、14世紀に活躍した武将で、室町幕府を開いた初代将軍です。

後醍醐天皇の倒幕運動に加わりながらも後に対立し、南北朝の動乱という激動の時代を駆け抜けた人物として知られています。

天皇に反旗を翻した「反逆者」として描かれることもある一方、その人間的な魅力や器量を高く評価する声も多く、今なお評価が分かれる武将の一人です。

そんな足利尊氏にまつわる雑学を11個ご紹介します。

1. 敵も味方もすぐに許す器量

裏切った武将でも降伏すれば受け入れ、同じ相手に何度裏切られても許し続けたことが史料に残っており、その懐の深さが多くの武士を引きつけました。

厳しさを求める家臣からは甘すぎると批判されることも多く、この姿勢が後の内紛の遠因になったとも言われています。

2. 財産をすべて配り尽くす気前

贈られた土地や財物を惜しみなく部下や寺社に配り続け、渡すものがなくなってもなお誰かに何かを贈ろうとしたエピソードが伝わっています。

天下人というよりも気前のいい篤志家のような振る舞いで、財政面での苦労が常に絶えなかったことは想像に難くありません。

3. すぐ絶望するメンタルの脆さ

戦局が悪化したり側近に裏切られたりすると「出家したい」と言い出す場面が史料に何度も記録されており、一説にはうつ状態に陥ることもあったとされています。

天下を取った人物とは思えないほど精神的に落ち込みやすく、感情の起伏が激しい一面を持っていました。

4. 戦場でも笑顔を見せる不思議

命の危機に瀕するような修羅場でも笑みを浮かべていたことがあり、側にいた人々が「なぜ笑えるのか」と首をかしげたエピソードが史料に残っています。

普段は落ち込みやすいのに戦場では妙に落ち着くアンバランスさが、尊氏という人物の不思議さを物語っています。

5. 将軍職を乗り気でなく受けた

足利幕府の初代将軍でありながら就任にあたって何度も辞退の姿勢を見せており、政治の中心に立つことを心から望んでいたわけではなかったことが伝わっています。

権力より人との結びつきを求めていたのか、なぜ自分がやるのかという葛藤がどこかにあったようです。

6. 弟に政務のほとんどを丸投げ

実際の行政運営のほぼすべてを弟の直義(ただよし)が担い、尊氏は大まかな方向性を示すにとどまっていたため、研究者の間では二頭政治と呼ばれることがあります。

兄弟の役割分担は長らく機能しましたが、後に両者が激しく対立したことで幕府は大きく揺れることになります。

7. 敵の天皇を最後まで慕い続けた

政治的に戦った後醍醐天皇が亡くなると深く悲しみ、その菩提を弔うために夢窓疎石(むそうそせき)の勧めで天龍寺を建立したことはよく知られています。

敵であっても人としては尊敬するという誠実な感情を最後まで持ち続けた点は、他の武将にはなかなか見られない姿勢でした。

8. 教科書の肖像画が別人だった

長年「足利尊氏像」として教科書に掲載されてきた馬上で弓を引く武者の絵は、近年の研究で高師直(こうのもろなお)の一族など別の人物である可能性が高いとわかってきました。

では本当の尊氏の顔はどのようなものだったのかというと、決定的な肖像画は特定されておらず実はよくわかっていません。

9. 怒りをほとんど見せない人柄

部下がミスをしても叱らず、裏切られても激しく怒鳴った記録がほとんどなく、側近や家臣の証言を集めても怒った場面が非常に少ないことで知られています。

これが本当に怒らない穏やかな性格なのか感情を抑えていたのかは、今も研究者の間で議論が続いています。

10. 困ったらまずお坊さんに頼る

精神的に追い詰められると禅僧の夢窓疎石に相談し、政治的な重大局面でも精神的な支えとして頼り続けたことが記録に残っています。

現代でいえばメンターやカウンセラーのような存在として深く信頼しており、天龍寺建立もこの夢窓疎石の強い勧めによるものでした。

11. 昔は日本三大悪人のひとり

明治以降は天皇に弓を引いた「逆賊」として評価が地に落ち、平将門・菅原道真と並んで日本三大悪人のひとりに数えられていた時代がありました。

戦後に研究が進んで再評価が進み、現在では時代の大きな転換期を苦しみながら生きた複雑で人間的な人物として見られています。

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