テスラの雑学13選!人工の雷で街を停電させた男

ニコラ・テスラという名前を聞くと、電気自動車の会社や、天才発明家というイメージが浮かぶかもしれません。

実際の彼は、今も使われている交流の技術を築いた一方で、鳩をかわいがり、数字の3にこだわり、殺人光線を構想した人でもありました。

伝記や新聞が伝えてきた話の中には、記録をたどると少し違って見えるものもあります。

そんなニコラ・テスラにまつわる雑学を13個ご紹介します。

世界を変えた5つの発明

テスラの功績は、電気の使い方そのものを変えた点にあります。

まずは、今の暮らしにつながる5つの仕事から見ていきます。

1. 交流モーターを生んだ講演

1888年5月、テスラはアメリカ電気学会で交流のモーターと変圧器に関する新しい方式を講演しました。

電流の向きを切り替える整流子という部品を使わず、自分で回り始める構造が特徴で、現在の交流モーターの原型とされています。

同じ年の7月にはウェスチングハウス社とライセンス契約を結びました。

条件は現金と株式で6万ドル、交流1馬力あたり2.50ドルのロイヤリティ、そして月2000ドルの顧問料を1年間受け取るというものでした。

出典:「Tesla and Westinghouse」(PBS American Experience)

2. シカゴ万博を照らした交流

1893年のシカゴ万国博覧会の照明工事は、ウェスチングハウス社が39万9000ドルで落札しました。

エジソン側のゼネラル・エレクトリックが示した55万4000ドルを大きく下回る金額です。

会場は交流の明かりで照らされ、交流が大規模な電力供給に使えることを多くの人が目にしました。

この成功がナイアガラ発電所への流れをつくったとされ、1895年8月にアダムス発電所が動き出し、翌1896年11月にはバッファローへの送電が始まっています。

出典:「World’s Columbian Exposition」(Wikipedia)

3. 世界を驚かせた無線ボート

1898年、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開かれた電気博覧会で、テスラは水に浮かべた小型のボートを電波で操ってみせました。

同じ年の11月8日には米特許613,809号として登録されています。

観客の中には、船体に小人が隠れているのではないかと疑った人がいたという逸話も伝わります。

テスラはこの技術を無線操縦の魚雷として米軍に売り込みましたが、当時の関心は薄いままでした。

ラジコンやドローンの先駆けの一つとされています。

出典:米特許613,809号(Tesla Universe)

4. X線を先に写していた説

1894年ごろから、テスラは放電管の実験中に、近くに置いた写真乾板がいつのまにか損なわれる現象に注目していました。

ところが1895年3月13日に研究室が焼失し、資料も装置もまとめて失われてしまいます。

レントゲンがX線を発見したのは同じ年の11月8日で、公表は12月末のことでした。

この時系列から、テスラのほうが先にX線の像を写していた可能性があるとも言われますが、肝心の記録が残っておらず、確かめるすべはありません。

5. 人工の雷が街を止めた日

1899年、テスラは標高の高いコロラドスプリングスに実験所を構え、巨大なコイルで人工の雷をつくり出しました。

放電は最長で約41メートルに達したと記録されています。

消費した電力はあまりに大きく、エルパソ電力会社の発電機を焼いて市内を停電させてしまいました。

同じ年の12月には、受信した規則的な信号について、他の惑星からの通信かもしれないと発表しています。

火星からの信号という言い方は報道側の表現で、信号の正体は今も分かっていません。

出典:「Nikola Tesla」(Wikipedia)

お金をめぐる3つの物語

発明の才能とお金の扱いは、まったく別の話でした。

ここでは、よく語られる逸話と実際の記録がずれている3つの場面を取り上げます。

6. 5万ドルの約束の真相

エジソンの会社で働いていたテスラが、発電機を改良できたら5万ドルを出すと言われ、やり遂げた後で「君はアメリカのジョークが分からないんだね」と断られた話はとても有名です。

ただテスラ自身の自伝では、経営陣による悪ふざけとして書かれており、エジソン本人の発言とする形は後年に広まったものです。

当時の給与水準からすると、金額の妥当性も怪しいところです。

テスラは1885年にエジソンのもとを去り、一時は日雇いの穴掘りで食いつないだと伝えられます。

7. ロイヤリティを手放す

1890年から91年前後、ウェスチングハウス社は資金繰りに苦しみ、テスラは契約のロイヤリティ条項から会社を解放することに同意しました。

よく語られるのは、テスラがその場で12億ドルの契約書を破り捨てたという劇的な場面ですが、記録上はあくまで条項の放棄です。

その約6年後の1897年、ゼネラル・エレクトリックとの特許共有協定に伴い、テスラの特許は21万6000ドルの一括払いで買い取られました。

受け取れたはずの額は、今の価値に直すと巨額だったとも言われます。

8. 未完に終わった巨大な塔

1901年3月、テスラはJ.P.モルガンから15万ドルを引き出し、ロングアイランドに無線通信の塔を建て始めます。

高さは約57メートル、頂部のドームは直径約21メートルという大きさでした。

しかし資金が続かず、工事は1905年から06年ごろに実質的に止まります。

モルガンが電力を無料で送る構想を嫌ったからだという説もありますが、確かなことは分かりません。

塔は1917年7月4日から解体が始まり、完全に倒れたのは9月。

スクラップとしての値は1750ドルでした。

出典:「Wardenclyffe Tower」(Wikipedia)

奇人と呼ばれた素顔と晩年

晩年のテスラは、奇人として語られることが増えていきます。

その素顔と、死んだ後に起きた出来事を追います。

9. 数字の3へのこだわり

テスラには数字の3にまつわる習慣と、強い潔癖症があったと伝えられます。

建物に入る前に街区を3周する、食事のたびに18枚のナプキンを使う、部屋番号は3で割り切れる数を選ぶ、といった話です。

晩年に暮らした部屋も3327号室でした。

ただし、こうした細かな数字の多くはジョン・オニールの伝記に由来するもので、一次資料で裏づけるのは難しいのが実際のところで、逸話として楽しむくらいが、ちょうどよさそうです。

出典:『Prodigal Genius』(ジョン・オニール著・1944年)

10. 1羽の白い鳩への愛情

テスラは公園で鳩に餌をやり、傷ついた鳩を部屋に連れ帰って世話をしていました。

本人が語ったところでは、とくに1羽の白い鳩には2000ドル以上を費やし、折れた翼と脚を支える装置まで自作したといいます。

ただ、鳩による汚れと未払いの宿泊費が重なり、1923年にはセント・レジス・ホテルを出ることになりました。

発明の話ばかりが語られる人物ですが、身近な生き物にはずいぶん手をかけていたようです。

11. 幻に終わった殺人光線

1934年7月11日、新聞各紙がテスラの新しい構想テレフォースを報じました。

本人の説明では、200マイル先を飛ぶ1万機の航空機を撃ち落とせる装置だといいます。

1935年にはソ連が2万5000ドルを払って設計資料を得たとされますが、実機の存在は確認されていません。

死の2日後の1943年1月9日、連邦政府が遺品を接収し、MITのジョン・G・トランプが調査して危険はないと結論づけます。

殺人光線の部品とされた箱の中身は、45年前の多段抵抗器、つまり電気抵抗を測る古い装置でした。

出典:「Teleforce」(Wikipedia)

12. 死の半年後に出た判決

1943年6月21日、アメリカ最高裁はマルコーニ・ワイヤレス社と合衆国の裁判で、マルコーニの改良特許の主要な部分を無効と判断しました。

ロッジ、ストーン、テスラの特許が先にあったことが理由です。

テスラが亡くなったのは同じ年の1月7日ですから、およそ5か月半後の判決でした。

ただし判決文は、マルコーニが最初に無線送信を成し遂げたという評価には影響しないと明記しています。

認められたのは、テスラの特許が先行していたという点までです。

出典:Marconi Wireless Tel. Co. v. United States, 320 U.S. 1(合衆国最高裁・1943年)

13. 名前が単位として残る

1934年からテスラはニューヨーカー・ホテルに住み、ウェスチングハウス社が顧問料の名目で月125ドルと部屋代を負担していました。

実質的な生活支援だったとも言われます。

1943年1月7日の夜、テスラは同じホテルの3327号室で86歳で亡くなりました。

死因は冠状動脈血栓症です。

それから17年後の1960年、国際度量衡総会は磁束密度のSI単位に「テスラ」の名を与えました。

晩年は静かなものでしたが、名前のほうは単位として今も世界中で使われ続けています。

出典:「Nikola Tesla」(Wikipedia)

まとめ

テスラが残した最も大きなものは、交流の技術でした。

1888年の電動機と1893年のシカゴ万博での実証が、今の送電のかたちにつながっています。

一方で、5万ドルの逸話や契約書を破り捨てたという話のように、後から劇的に語り直された部分も少なくありません。

1943年の最高裁判決も、認められたのは特許が先行していたという点までで、発明者の称号ではありませんでした。

伝説をはがしていくと、成功と失敗を両方抱えた一人の技術者の姿が見えてきます。

鳩に餌をやっていたあの老人の名前が、いまは磁束密度の単位になっている。

そう思うと、少し不思議な気分になりませんか。

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