ライト兄弟の雑学12選!初飛行の翌日の一面は作り話

1903年12月17日、アメリカのノースカロライナ州の砂丘で、1機の機体がわずか12秒だけ空に浮かびました。

作ったのはオハイオ州で自転車店を営んでいたウィルバーとオービルのライト兄弟です。

大学へ行っていない2人が、国の予算で機体を作ったライバルを出し抜いた瞬間でした。

ところが地元の新聞は記事にすることを断り、翌日の一面を飾ったのは、ほぼ全編が作り話の記事だったのです。

そんなライト兄弟にまつわる雑学を12個ご紹介します。

飛行機になる前の兄弟と家族

まずは飛行機を作る前のライト兄弟から見ていきましょう。

2人を空へ向かわせたのは、子どものころの小さな出来事と、そばにいた家族の存在でした。

1. 原点は父の土産のおもちゃ

1878年、教会の司教として各地を回っていた父ミルトンが、出張の土産に小さな飛行おもちゃを持ち帰りました。

紙と竹などでできていて、ゴムひもの力で羽根が回る、竹とんぼのような仕掛けです。

手を離すと天井にぶつかってしばらく舞い、やがて床に落ちました。

兄弟はこれを「バット」と呼んで壊れるまで遊び、自分たちで作り直そうとします。

オービルは後年、これが飛行への関心の出発点だったと語っています。

※「バット」はこうもりのことです。

2. 前歯を奪ったホッケーの一撃

1885年から86年にかけての冬、18歳ごろのウィルバーはアイスホッケーの最中に相手のスティックが顔へ当たり、上の前歯の大半を失いました。

流動食の生活を強いられ、イェール大学への進学もあきらめます。

その後は数年ほど家にこもり、結核をわずらう母の看病をしながら本を読んで過ごしました。

この時期の読書が、のちに独学で飛行機を組み立てる土台になったと言われます。

スティックを振った相手は、のちに家族を殺めて1907年に処刑された同じ町の若者だったとも伝えられます。

3. 兄弟を支えた妹との断絶

妹のキャサリンは家族で唯一の大学卒業者で、1908年にオービルが墜落事故で重傷を負うと、教職を離れて看病にあたりました。

以後は兄弟の仕事を支え、欧州では交渉役も務め、フランス政府から勲章を授けられています。

ところが1926年11月20日、52歳で新聞編集者と結婚すると、オービルは裏切られたと感じて式に出ず、交流を断ってしまいます。

1929年、54歳の彼女が肺炎で危篤になると、兄ロリンの説得でようやく駆けつけ、死の間際に和解したとされます。

兄弟2人は生涯独身でした。

初飛行の日に起きたこと

ここからは、1903年12月17日をはさんだ数日の出来事です。

人類が初めて動力で飛んだ日は、想像よりもずっと小さな規模で、あっけない幕切れを迎えました。

4. 自己資金1000ドルの挑戦

兄弟が1900年から1903年までに飛行機の開発へ使ったお金は、1000ドル弱でした。

しかも全額が自転車店であげた利益で、外からの援助は受けていません。

一方、当時のライバルだったスミソニアン協会長官のサミュエル・ラングレーは、陸軍省の5万ドルを含むおよそ7万ドル、兄弟のおよそ70倍をかけて機体を作りました。

ところが1903年10月と12月の2度とも、その機体はポトマック川に落ち、新聞や議会に笑われます。

その9日後に飛んだのが、資金で劣る自転車屋の兄弟でした。

5. コイントスで決めた順番

どちらが先に操縦するかは、コイントスで決めました。

1903年12月14日、勝ったウィルバーが先に挑みましたが、離陸した直後に失速して落ち、機体は小さく壊れます。

修理を終えた12月17日、順番が回ってきたオービルが操縦し、史上初の動力飛行に成功しました。

間にはさまる12月13日は日曜日で、信仰にあつい一家は飛行を試みていません。

コインの表裏と日曜日の休みが、最初に空を飛んだ人を分けたことになります。

6. たった5人が見た初飛行

1903年12月17日午前10時35分、最初の飛行は12秒、距離にして約36mでした。

その場にいた目撃者は5人だけで、近くの沿岸救助所の隊員3人と、住民1人、17歳の少年です。

有名な初飛行の写真を撮ったのは、救助隊員のジョン・T・ダニエルズでした。

彼はカメラを扱ったことがなく、興奮のあまりシャッターを握れたかどうかも覚えていなかったといいます。

構図は前もってオービルが三脚に据えて決めており、乾板はオハイオに戻るまで現像されませんでした。

※「乾板」は当時使われていた、ガラス製の写真フィルムのようなものです。

7. 最長記録の直後に来た突風

同じ日の4回目、ウィルバーは59秒で約260mを飛び、その日の最長記録を出しました。

ところが地上に置いた機体が直後の突風にあおられて転がり、修理できないほど壊れて二度と飛びませんでした。

支柱をつかんで止めようとしたダニエルズは、翼の間にはさまれたまま一緒に転がってしまいます。

幸い大きなけがはなく、彼はその後も自分は世界初の飛行機事故の生き残りだと語り続けました。

ダニエルズが亡くなったのは1948年1月31日、オービルの死の翌日のことです。

世間の反応とその後のゆくえ

歴史が動いたその日、世界のほとんどは何も気づいていませんでした。

兄弟が認められるまでの遠回りと、そのはるか先まで続く話を見ていきます。

8. 誤記だらけで届いた電報

成功を知らせる父宛の電報は、伝わる途中で中身が変わってしまいました。

59秒が57秒になり、Orvilleという名前もOrevelleと打ち間違えられています。

文面に「プレスに知らせよ」とあったため、兄のロリンがデイトン・ジャーナル紙へ持ち込みました。

ところが担当者は取り合わず、「57秒?57分なら記事になったのに」と言ったと伝えられます。

人類初の動力飛行は、地元の新聞にすら載らないまま日が暮れました。

9. 一面を飾ったでっち上げ

翌12月18日、バージニア州のヴァージニアン・パイロット紙が「飛行機械、カロライナ沿岸で3マイルを飛ぶ」と一面で報じました。

ところが中身は、3マイルという距離も、高度約18mも、6枚羽根のプロペラも、操縦者が「ユーリカ」と叫んだ場面も、ほぼ全編が作り話でした。

記事はAP通信を通じて全米数十紙に転載されます。

兄弟は1904年1月5日に、ほぼすべての細部が誤りだとする声明を出しましたが、それを載せた新聞はほとんどありませんでした。

10. 世界初の目撃記事は養蜂誌

1904年9月20日、オハイオ州の牧草地で、養蜂家のエイモス・ルートがウィルバーによる史上初の旋回飛行を目にしました。

彼は兄弟の求めに応じて公表を待ち、自分が出していた養蜂業界誌の1905年1月1日号にその様子を書きます。

これが、飛行を実際に見た人による世界初の記事になりました。

同じ原稿を科学誌のサイエンティフィック・アメリカンにも送りましたが、そちらは取り合ってもらえなかったそうです。

11. 45年かけて帰った初号機

1914年、スミソニアン協会はライバルのグレン・カーチスにラングレーの失敗機を改造させて飛ばし、最初に飛べた機体として展示しました。

怒ったオービルは1925年、フライヤー号をロンドンの科学博物館へ送ると発表し、1928年に渡英させます。

協会が誤りを認めたのは1942年、機体が戻ったのは1948年12月17日、初飛行からちょうど45年後、オービルの死後でした。

代金は1ドルで、1903年より前に飛べた機体があったと協会が認めれば遺族が取り戻せるという条件が、今も付いたままです。

12. 月へ運ばれた翼の切れ端

1969年7月、アポロ11号のニール・アームストロングは、1903年のフライヤー号から取った翼の布4片と、プロペラの木片2片を持って行きました。

月面に降り立った着陸船イーグルに、それらを積み込んでいたのです。

初めて空を飛んでから月に立つまで、かかった年数はわずか66年でした。

空を飛べるのかと疑われた時代から、一世代あまりで月へ届いたことになります。

現在その一部は、スミソニアン国立航空宇宙博物館で展示されています。

まとめ

ライト兄弟の物語は、うまくいった瞬間よりも、その周りにあった出来事のほうが印象に残ります。

開発費は自転車店の利益からの1000ドル弱で、国の予算をつぎ込んだライバルのおよそ70分の1でした。

初飛行を見た人はたった5人で、その日のうちに機体は突風で壊れ、地元の新聞は記事にすることさえ断っています。

世界で最初に飛行を伝えたのも、航空の専門誌ではなく養蜂家の業界誌でした。

誰もまともに取り合わなかった12秒が、66年後には月まで届いたわけです。

世の中がすぐに気づかない出来事ほど、あとから大きく見えてくるのかもしれません。

次に飛行機に乗るときは、この12秒を少し思い出してみてください。

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