カリブの海賊の雑学12選!板歩きも宝の地図も後世の創作だった
カリブの海賊と聞いて思い浮かぶ姿の多くは、後の時代の小説や映画が作り上げたものです。板歩きも、X印のついた宝の地図も、当時の記録には見当たりません。
一方で、史料をたどると別の顔が見えてきます。船長は投票で選ばれ、失った手足には補償額が決まっていて、街をひとつ封鎖してまで求めたのが薬箱だった、といった話です。
そんなカリブの海賊にまつわる雑学を12個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。
作られた海賊像をはがす
まずは、物語のなかで育っていった海賊像から見ていきます。当時の記録と照らし合わせると、いくつものずれが見つかります。
1. 板歩きは後の時代の話
海賊が捕虜を板の上から海へ突き落とす板歩きは、絵や映画でおなじみの場面です。ただ、記録に残る事例は1763年や1822年、1829年など、海賊の黄金時代と呼ばれる1650年代から1730年頃より後のものばかりで、同時代の史料には見つかっていません。
実際に行われた罰として伝えられているのは、無人島に置き去りにするマルーンや鞭打ちでした。板歩きは、海賊が姿を消したあとの出来事が海賊像に取り込まれたものと考えられます。
※「マルーン」は無人島などに置き去りにする刑罰です
2. 宝の地図は物語の産物
宝を埋めた海賊として記録で確認できるのは、事実上ウィリアム・キッドだけです。ガーディナーズ島に隠された財宝はベロモント総督の指示で掘り出され、裁判の証拠として使われました。埋めた動機は、後の交渉材料にするためだったとみられています。
X印のついた宝の地図は、物語のなかから生まれた小道具です。アーヴィングが1824年に書いた作品、1843年のポー『黄金虫』、1883年の『宝島』と、創作のなかで受け継がれてきました。
3. 黒ひげが残さなかった記録
黒ひげは恐ろしい海賊の代表として語られますが、研究者のビアルシェフスキは、彼が暴力をふるった証拠を1つも見ていないと述べています。帽子に導火線を仕込んで火をくすぶらせていたと伝えられる姿も、戦わずに相手を降参させるための演出だったという見方です。
最後は1718年11月22日、オクラコークでメイナード中尉の部隊に討たれました。中尉の報告によれば、銃創が5か所、切り傷は約20か所あったとされます。人を殺した記録が残っていない、というのが史料から言えるところです。
4. 眼帯の暗視説は後づけ
海賊が眼帯をしていたのは、暗い船内でもすぐ目が慣れるようにするためだった、という話が知られています。ただ、これを裏づける当時の史料はなく、テレビ番組などから広まった現代の後づけと考えられています。
1680年代に描かれた同時代の図像には、義足も眼帯も鉤手もオウムも出てきません。片目を失った人が眼帯を着けること自体はありましたが、それは海賊に限った話ではありませんでした。
出典:Benerson Little(海賊史研究、2017)
船の上の掟と裁きの実際
続いて、船の上でどんな決まりごとがあり、捕らえられた海賊がどう裁かれたのかを見ていきます。
5. 船長は選挙で選ばれた
多くの海賊船では、船長は乗組員の投票で選ばれました。臆病だと見なされたり、指揮が下手だと判断されたりすれば、同じく投票で降ろされることもありました。
日常の権力を握っていたのはクォーターマスターです。物資や分配の管理、懲罰、もめごとの仲裁を担い、船長が強い権限を持つのは追跡中と戦闘中に限られていました。商船で船長が独裁的にふるまうことへの対抗策として機能した、という分析もあります。
※「クォーターマスター」は物資の管理や分配、懲罰などを担った役職です
出典:Peter T. Leeson『The Invisible Hook』(2009)
6. 手足につけられた値段
エスケメリンの『アメリカの海賊』には、バッカニアと呼ばれた集団の取り決めが記されています。戦いで失った体の部位ごとに補償額が決まっており、右腕は600ピース・オブ・エイト、左腕は500、右脚は500、左脚は400、目と指は100でした。奴隷で受け取る選択肢もあり、右腕なら6人にあたるとされます。
一方、バーソロミュー・ロバーツの掟では部位別ではなく一律800ドルでした。労災補償の先駆けと呼ばれることがあります。
※「ピース・オブ・エイト」は当時広く流通したスペインの銀貨で、ロバーツの掟のドルも同じ銀貨を指します
7. 2人が免れた絞首刑
アン・ボニーとメアリー・リードは1720年8月にネグリル沖で捕らえられ、スパニッシュタウンの裁判で死刑を言い渡されました。しかし2人は妊娠していると申し立て、刑の執行を免れています。
1724年に出た『海賊列伝』には、襲われたとき甲板に残って戦ったのはこの2人ともう1人だけだった、と書き残されています。リードは1721年4月に獄中で病死し、ボニーのその後は不明とされてきましたが、サウスカロライナで1782年に亡くなったとする記録もあります。
記録に残る本当の事件
ここからは、日付や場所まで史料に残っている出来事を取り上げます。
8. 封鎖の要求は薬箱1つ
1718年5月、黒ひげの一党はチャールストンの港を封鎖し、船4隻を押さえて乗っていた人々を人質に取りました。要求されたのは金銀ではなく、薬箱を1つ届けることでした。応じなければ人質を殺し、船を焼くと通告しています。
薬は届けられて人質は解放されましたが、積荷は奪われ、その多くは壊されました。海賊側は約300人と伝わります。なぜ薬だったのかについては、梅毒の治療薬を求めたという見方があります。
9. 200年後に出てきた書類
ウィリアム・キッドの航海は、1696年に貴族4人が費用の5分の4を出し、国王ウィリアム3世が私掠免許に署名して戦利品の10%を確保するという、後ろ盾のある事業でした。ところが拿捕したクェダ・マーチャント号のフランス通行証は法廷に出されず、主張を裏づける文書がないまま裁判は進みます。
1701年5月23日、ワッピングで絞首刑が行われました。遺体はその後3年間さらされています。通行証は20世紀初頭、ロンドンの役所で他の文書に紛れているのが見つかりました。
※「私掠免許」は国が敵国の船をおそうことを認めた許可証です
10. 海賊追放が国の標語に
1717年9月5日付で国王の恩赦布告が出され、翌1718年7月24日にウッズ・ロジャーズが総督としてバハマに着任しました。恩赦を使って拠点は解体されていきます。海賊は最盛期には1000人規模とも言われ、着任のころは数百人規模だったと伝えられます。
このときロジャーズが掲げたと伝えられるのが、ラテン語のExpulsis Piratis, Restituta Commerciaという言葉です。海賊は追われ、商業は戻ったという意味で、のちに植民地の標語として使われました。
※標語は1971年に新しい国章とともに改められ、1973年にバハマは独立しました
11. 海賊と書かれ訴えた男
エスケメリンの『アメリカの海賊』は1684年にロンドンで英語版が出ましたが、そこに海賊として描かれたヘンリー・モーガンは、版元を名誉毀損で訴えました。自分は私掠免許を受けた立場であり、海賊ではないという主張です。
裁判は翌年に決着し、賠償200ポンドが認められました。以後の英語版からは、人間の盾を使ったという記述などが削られています。モーガンはのちにナイトに叙され、ジャマイカの副総督を務めました。
出典:Joseph Gibbs(International Journal of Maritime History、2018)
12. 11時43分に沈んだ街
1692年6月7日午前11時43分、大きな地震がジャマイカを襲い、海賊の街として栄えたポート・ロイヤルの約3分の2、およそ13ヘクタールが海に沈みました。地震と津波で約2000人、その後の負傷や疫病で約3000人、合わせて約5000人が亡くなったとされています。
時刻は当時の証言から分かっていましたが、1959年のエドウィン・リンクらによる水中調査で、1686年頃に作られたオランダ製の懐中時計が引き上げられました。針は11時43分で止まっており、証言を裏づける形になりました。
※ヘンリー・モーガンの墓は、墓地ごと海に消えたと伝えられます
出典:ポート・ロイヤル水中調査(エドウィン・リンク、1959年)
まとめ
板歩きも宝の地図も、海賊が姿を消したあとの創作から広まったものでした。眼帯で暗さに備えたという話にも、当時の史料の裏づけはありません。
その一方で、船長を投票で選び、失った手足に補償額を決めていた取り決めは記録に残っています。港をひとつ封鎖して薬箱を求めた事件も、法廷に出されなかった通行証も、海に沈んだ街の時刻も同じです。
よく知られた海賊像を一枚はがしてみると、記録に残された出来事のほうがよほど具体的でした。