今川義元の雑学12選!桶狭間で奪われた愛刀は天下人4人へ

海道一の弓取りと呼ばれた今川義元は、桶狭間の戦いで織田信長に討たれた大名として広く知られています。

輿に乗り、お歯黒をつけた公家かぶれの愚将というイメージも、いまだに根強く残っているようです。

けれどもその姿の多くは後の世に作られたもので、実際の義元は寺で育った僧の身から今川家を継ぎ、国の法を定め、隣国の大名と同盟を結び、同時代の名将から手本と評された一流の大名でした。

そんな今川義元にまつわる雑学を12個ご紹介します。

僧から大名になるまで

義元は生まれたときから跡取りだったわけではありません。

まずは、寺に入った少年が今川家の当主になり、その足もとを支えた人たちの話から見ていきます。

1. 4歳で出家した跡取り

今川義元は永正16年に今川氏親の三男として生まれ、数え4歳のころに駿河の善得寺へ預けられました。

兄たちがいる三男に家督を継ぐ見込みはほとんどなく、寺は家を継がない子の落ち着き先でもありました。

享禄3年には京の建仁寺で得度して承芳と名乗り、のちに栴岳承芳と称する禅僧として、学問に打ち込む静かな日々を送っています。

のちに海道一の弓取りと呼ばれる大名が、少年期を経典とともに過ごしていたわけです。

※「栴岳承芳」は「せんがくしょうほう」と読み、「梅岳承芳」と表記する資料もあります

2. 兄と弟が同じ日に急死

天文5年3月17日、当主だった兄の氏輝と、次の後継者と目されていた弟の彦五郎が、同じ日にそろって世を去りました。

病死とも毒殺とも言われ、原因は今もはっきりしていません。

跡を継ぐ立場の二人が一度に消えたことで今川家は後継者争いに入り、僧だった義元は還俗して名を義元と改め、家督を争います。

そして異母兄の玄広恵探を破り、寺で育った身から今川家の当主の座を手にしました。

※「玄広恵探」は「げんこうえたん」と読み、この家督争いは花倉の乱と呼ばれています

3. 自ら印判を押した女大名

義元の母とされる寿桂尼は、京の公家である中御門宣胤の娘で、歸の字を刻んだ印判を押した文書を、自分の名で堂々と出し続けていました。

印判を押した文書は当主の意思を示すもので、戦国時代に女性が自分の名でそれを出し続けた例は、きわめて珍しいとされています。

寿桂尼は夫の氏親から子の氏輝と義元、孫の氏真まで、4代にわたって今川家の政務を支えました。

その存在感の大きさから、後世には女大名とも呼ばれています。

※「寿桂尼」は「じゅけいに」と読みます。近年は義元を側室の子とし、寿桂尼とは養子縁組だったとする説もあります

4. 軍を率いた禅僧の参謀

義元を支えた太原雪斎は臨済宗の禅僧でありながら、袈裟を脱ぎ捨ててみずから大将として戦場に立ちました。

天文17年の小豆坂の戦いでは織田信秀の軍を破っています。

翌年には三河の安祥城を攻めて信長の兄の信広を捕らえ、人質交換によって幼い竹千代を無事に取り戻しました。

その雪斎が弘治元年に60歳で世を去ったのは、桶狭間の戦いのわずか5年前のことです。

※竹千代はのちの徳川家康です

同盟と法で示した実力

当主となった義元は、外交と法によって領国を固めていきます。

同時代の人がこの大名をどう見ていたのかも、あわせてのぞいてみましょう。

5. 三重の婚姻で結んだ同盟

甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川は、たがいに娘を嫁がせ合う三重の婚姻で結ばれました。

三組の婚姻は1552年から1554年にかけて順に結ばれ、天文23年に甲相駿三国同盟が完成しています。

背後の警戒がいらなくなったことで、義元は西の三河や尾張へ力を向けやすくなりました。

三人の大名が善得寺に集まって盟約を交わしたというよく知られた名場面は、後世の軍記物にしか見えず、史実ではないとみる説が有力です。

6. 将軍の権威を否定した法

天文22年、義元は父の氏親が定めた分国法に21か条を書き加えました。

そのなかで、幕府の役人が立ち入れないという特権をもう認めないと宣言しています。

理由として示したのは、今この国を治めているのは将軍家の力ではなく自分の力量だ、という理屈でした。

将軍から任された守護だから国を治めているのではない、と言い切ったに等しく、戦国大名への転身を示す事実上の独立宣言と評価されることもあります。

※「分国法」は戦国大名が自分の領国だけに定めた法律のことです

7. 名将が手本と挙げた男

越前の名将と呼ばれた朝倉宗滴の言葉を家臣がまとめた書物には、国を持ち人を使うのが上手な手本と言うべき人として、7人の名前が並んでいます。

その筆頭に置かれているのが義元で、武田晴信や織田信長らと肩を並べる評価でした。

越前という遠い国の武将から名指しされている点でも、この評価には重みがあります。

生きていたころの義元は、愚将どころか一流の大名と見られていたようです。

愚将イメージと死後の話

では、公家かぶれの愚将という評判はどこから来たのでしょうか。

ここからは義元の見た目や乗り物にまつわる誤解と、桶狭間のあとに起きたことを追いかけます。

8. お歯黒は戦場の身だしなみ

義元がお歯黒や薄化粧をしていたのは事実ですが、それを公家かぶれの証拠と見るのは無理があるようです。

当時は討ち取られたときに見苦しくないよう、身なりを整えてから戦場に出る武将が珍しくありませんでした。

太りすぎて馬に乗れなかったという話も、同時代の史料には見えません。

体型に触れた記述が現れるのは元禄期の説話集などで、江戸時代以降の脚色と考えられています。

9. 輿は格式を示す乗り物

戦場に輿で向かった軟弱者という評判が長く残っていますが、塗輿は限られた家格の大名にだけ許された乗り物だったとされ、力のある大名だと示すための道具でした。

義元がこの塗輿を許されたのは桶狭間の直前のことだった、とみる研究者もいます。

しかも信長公記には、桶狭間で義元が輿を捨てて馬にまたがり、家臣に守られて退いたと記されています。

最後まで輿の上に座っていたわけではなさそうです。

10. 天下人を渡り歩いた愛刀

桶狭間で信長に奪われた義元の愛刀だった宗三左文字は、茎に討ち取った日付と信長の名を金象嵌で刻まれました。

戦利品として持ち帰るだけでなく、義元を討ったという事実そのものを刀に刻みつけたわけです。

その後は秀吉、秀頼、家康と天下人の手を渡り歩き、明暦の大火で焼けて鍛え直されました。

焼けたときに金象嵌の一部は金の粒となって茎に残り、この刀は今も現存して、義元左文字の名で重要文化財に指定されています。

※「茎(なかご)」は刀の柄に収まる部分、「金象嵌(きんぞうがん)」は金をはめ込む装飾です

11. 首と胴が別々に眠る墓

義元の首は、鳴海城を守り続けていた家臣の岡部元信が、城の明け渡しと引き換えに取り戻したと伝わります。

主君を討たれてもなお城を保ち、その城と交換に首を返させたことになります。

しかし駿河へ運ぶ途中で傷みが進んだため、首は西尾の東向寺に、胴は豊川の大聖寺に葬られたとされます。

そのため愛知県内には、供養塔を含めて6か所ほどの墓が今も残っています。

12. 77歳まで生き抜いた息子

父の死後に領国を失った氏真は暗愚と言われがちですが、その後をしたたかに生き抜いた人でもありました。

天正3年には京の相国寺で、父を討った信長に所望されて蹴鞠を披露しています。

そして慶長19年に77歳で長い生涯を終え、桶狭間から半世紀以上をながらえました。

子孫は江戸幕府の高家として明治まで続き、幕末の今川範叙は高家出身では唯一の若年寄になったとされます。

※「高家」は江戸幕府で儀式や朝廷との交渉を担当した家柄のことです

まとめ

桶狭間で討たれた場面ばかりが有名な今川義元ですが、寺で育った僧が家督争いを制して当主となり、分国法に手を入れて幕府の特権を否定し、三国同盟で背後を固めた歩みをたどると、愚将という評価が後づけであることが見えてきます。

お歯黒も輿も、当時の武家にとっては力と格式を示すふるまいでした。

負けた側の姿は、勝った側の物語に合わせて描き直されていくのかもしれません。

今度どこかで義元の名前を見かけたら、討たれた大名としてだけでなく、朝倉宗滴が手本に挙げた大名としても思い出してみてください。

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