本田宗一郎の雑学12選!燃料タンクは妻の湯たんぽだった
ホンダをつくった人、と紹介されると、几帳面な技術者を思い浮かべるかもしれません。実際の本田宗一郎は学校をきちんと出ておらず、会社の書類も読まず、気に入らないことがあれば相手が役所でも噛みつく人でした。
1922年に15歳で東京の自動車修理工場へ丁稚奉公に出た少年は、失敗と回り道を重ねながら、やがて世界一のレースで勝つ会社をつくります。
そんな本田宗一郎にまつわる雑学を12個ご紹介します。
学校よりレースで学んだ
まずは、ホンダを興す前の宗一郎を見ていきます。うまくいった話よりも、失敗と回り道のほうが多く残っています。
1. 少年は飛行機を見に走った
1917年(大正6年)のこととされます。アメリカ人の飛行家が浜松の練兵場で曲芸飛行を見せることになりました。当時10歳ほどだった宗一郎は、父の自転車を持ち出し、片道20kmほどの道を朝早くから走ったと伝わります。
会場に着いても入場料が払えず、近くの松の木によじ登って空を見上げていたと伝えられます。この日に初めて見た飛行機は、のちの空への憧れの原点として語られる出来事になりました。
※学校を休み、家の金を持ち出したという話も残ります
2. 自作の車で3回転半の大事故
1936年6月7日、多摩川スピードウェイで第1回全日本自動車競走大会が開かれ、宗一郎はフォードをもとに自作した車で弟の弁二郎とともに出場しました。ハンドルを握っていたのは宗一郎とされます。
ゴールの手前で前を走る車と接触し、車は3回転半する大事故になりました。翌日の東京朝日新聞によれば、宗一郎は顔面に全治2週間、弁二郎は脊髄捻挫で全治3か月の重傷を負っています。それでも平均時速120kmを記録する走りでした。
※新聞記事では弟の名前は弁次郎と表記されています
※宗一郎はのちに、1962年9月に完成した鈴鹿サーキットをつくり、他社にもコースを開放しました
出典:東京朝日新聞(1936年6月8日)
3. 3万本つくって合格3本
修理業から製造業へ移った宗一郎は、自分の会社でピストンリングづくりに挑みます。ところが試作はほとんどが不合格で、3万本つくって合格したのは3本だったと伝わります。
理論が足りないと痛感した宗一郎は、浜松高等工業学校の聴講生になり、3年間金属工学を学びました。試験は受けず卒業証書はもらっていないとされ、卒業証書は映画の入場券にも及ばないという趣旨の言葉を残したとされます。学び直しの成果でリングの量産にこぎつけ、28件の特許を取ったとされます。
※試作した本数は資料により差があります
※1928年、21歳のときにのれん分けで独立し、浜松で修理工場を開いています
4. 会社を売って人間休業
1945年1月の三河地震で工場が壊れ、宗一郎は持っていた株式をすべて売り払って会社を離れました。このとき38歳です。
その後およそ1年間、自ら人間休業と称して仕事をせず、酒を飲んだり尺八を吹いたりして過ごしたと伝わります。自作の合成酒や製塩機をつくったという話もあります。そして1946年10月、浜松に本田技術研究所を設立し、ふたたび機械の世界に戻りました。
※本田技研工業株式会社の設立は1948年9月で、研究所の設立とは2年ほど離れています
湯たんぽから世界一まで
ここからは、ふたたび始めた仕事が世界へ広がっていく時期です。出発点は、自転車に取り付けた小さなエンジンでした。
5. 燃料タンクは妻の湯たんぽ
1946年、宗一郎は旧陸軍が無線機の発電用に使っていた小型エンジンを買い集め、自転車に取り付けて売り出しました。ガソリンが手に入りにくい時代だったため、燃料には松の根から採る松根油を使っています。
タンクには妻が使っていた湯たんぽを載せました。エンジンの音からバタバタと呼ばれてよく売れ、テストライダーを務めたのは妻のさち夫人です。買い集めたエンジンを使い切ったあと、1947年に自社製のA型エンジンを完成させました。
※A型エンジンは50cc、0.5馬力でした
6. 実印を見たことがない社長
1949年、宗一郎は藤沢武夫と出会います。以後、宗一郎は技術に専念し、経営はすべて藤沢に任せました。会社の実印も藤沢が預かり、宗一郎は後年、社印も実印も見たことがないと語っています。
1989年、宗一郎は日本人として初めてアメリカの自動車殿堂入りを果たしました。帰国した宗一郎は、先に亡くなっていた藤沢の位牌にメダルを架け、これは二人でもらったものだと語りかけたと伝えられます。
※藤沢武夫がホンダに入社したのは1949年10月です
7. 世界一のレースへの出場宣言
1954年、ホンダは製品の不具合や特需の終わりが重なり、創業以来最大級の危機にありました。その最中の3月、宗一郎はマン島TTレースへの出場を宣言します。
同年6月に欧州を見て回ると、世界水準と見ていた1リッターあたり100馬力に対し、ドイツのNSUはすでに150馬力に届いていました。初出場は1959年で、125ccクラスの6位、7位、8位とチーム賞。そして1961年6月12日、マイク・ヘイルウッドが125ccと250ccの両クラスで優勝し、宣言から7年で目標を果たしました。
※四輪でも1965年10月24日、シーズン最終戦のメキシコGPでリッチー・ギンサーがホンダに初優勝をもたらしました
出典:本田技研工業 75年史
8. そば屋の片手運転から1億台
1958年8月に発売されたスーパーカブは、そば屋の出前持ちが片手で運転できることが開発の狙いとして語られます。左手でクラッチを握らずに済む自動遠心クラッチがその答えでした。
生産台数は1961年に100万台、1974年に1000万台と伸び、2017年10月には世界生産累計1億台に達しています。生産は15か国16拠点、販売は延べ160か国以上に及び、単一のバイクシリーズとして群を抜く記録になりました。
※発売時の価格は5万5000円、燃費は当時のカタログ値で90km/Lとされます
※1959年6月にはロサンゼルスへ社員8人で進出し、最初の半年の販売は約170台でした
出典:Honda公式ニュースリリース(2017年)
反骨と、きれいな引き際
最後は、宗一郎の人柄と引き際が表れた出来事を集めました。時期は1952年から晩年までにまたがります。
9. 授与式に白いツナギで
1952年、宗一郎は藍綬褒章を受章します。このとき、技術者の正装とは真っ白なツナギだと言い、その姿で授与式に出ようとしたと伝わります。結局はモーニングを借りて出席しました。
白いツナギへのこだわりには理由がありました。汚れが目立てば汚さないように気をつけ、機械も丁寧に扱うようになるという考えです。学歴や家柄で人を判断せず、差別を諸悪の根源と呼んで嫌ったことも知られています。
※藍綬褒章は公共の利益に尽くした人などに贈られる褒章です
10. 役所の統制に噛みついた
1961年5月、通産省は自動車行政の基本方針を打ち出し、続く特定産業振興臨時措置法案で新規参入を事実上制限しようとしました。二輪しかつくっていなかったホンダは締め出される側でした。
宗一郎は、自分にもクルマをつくる権利がある、競争は自由だ、会社は法人であり役所の命令で動くものではない、という趣旨のことを言って反発しました。法案は1963年3月に国会へ提出されたものの成立せず、1964年1月に廃案となります。ホンダは1963年8月に軽トラックのT360を発売しました。
※特定産業振興臨時措置法案は特振法と略して呼ばれます
※1963年10月には小型スポーツカーのS500も発売し、四輪メーカーの仲間入りをしています
出典:本田技研工業 75年史
11. 空冷か水冷かで身を引く
1970年代の初め、アメリカの厳しい排ガス規制への対応をめぐって、若手技術者は水冷を主張し、宗一郎は空冷にこだわって社内は深く対立しました。藤沢武夫が、あなたはホンダの社長なのか技術者なのかと問いかけたと伝えられます。
生まれた水冷のCVCCエンジンは1972年10月11日に発表され、同年12月の試験で1975年規制の合格第1号になりました。宗一郎はこの技術をトヨタなどにも供与しています。そして1973年10月29日、66歳で社長を退き、45歳の河島喜好が後を継ぎました。
※トヨタへの技術供与の調印は1972年12月13日で、その後フォードなどにも供与されました
※退任後はおよそ2年半かけて全国の工場や販売店を回り、お礼行脚と呼ばれました
出典:本田技研工業 75年史
12. 渋滞を嫌って社葬を断る
1991年8月5日、宗一郎は84歳で亡くなりました。亡くなる前、社葬はするなと言い残しています。
理由は、クルマやオートバイのおかげで生きてきたのに、自分の葬式で渋滞を起こして迷惑をかけたくない、というものだったと伝わります。遺言のとおり葬儀は家族で静かに営まれ、後日、社としてお別れの会が開かれました。亡くなる少し前には、点滴の管をつけたまま妻に自分を背負って歩いてほしいと頼み、満足だったという言葉を残したとも伝えられます。
まとめ
本田宗一郎は、10歳で飛行機を見に走り、自作の車で大事故を起こし、3万本つくって合格3本という失敗から学校に通い直した人でした。会社を売って1年ぶらぶらしたあと、旧軍の払い下げエンジンと妻の湯たんぽから、もう一度ものづくりを始めています。
その先にあったのが、マン島TTでの優勝と、世界で1億台を超えたスーパーカブでした。役所の統制には噛みつき、褒章の授与式にはツナギで行こうとし、最後は自分の葬式で渋滞を起こすなと言い残しています。
肩書きよりも手を動かすことを選び続けた人だった、というのがこの記事から見えてくるところです。