後白河法皇の雑学12選!頼朝が恐れた日本一の大天狗
平安時代の末期、貴族の世から武士の世へと移り変わっていく激動の時代に、およそ30年ものあいだ朝廷の実権を握り続けた人物がいます。
それが後白河法皇です。流行歌にのめり込んで声をつぶすほど歌い、熊野へは34回も足を運び、清盛や義仲に幾度も幽閉されながらもしぶとく生き抜いた、つかみどころのない大人物でした。
源頼朝から「日本一の大天狗」と評された、その意外な素顔に迫ります。
そんな後白河法皇にまつわる雑学を12個ご紹介します。
1. 中継ぎで即位した第四皇子
後白河法皇は、鳥羽上皇の第四皇子として生まれ、自分が天皇になる見込みは薄いと周囲から見られていました。
ところが跡継ぎのいないまま異母弟の近衛天皇が急死したため、1155年に29歳で、次の世代へ皇位をつなぐ中継ぎの天皇として即位することになったのです。
後白河法皇=ごしらかわほうおう
鳥羽上皇=とばじょうこう
近衛天皇=このえてんのう
2. 歌いすぎて声を失った話
うち2回は喉が腫れて湯水も通らないほどで、そのつらい経験を自ら歌論書である梁塵秘抄口伝集のなかに書き残しました。
今様=いまよう
梁塵秘抄口伝集=りょうじんひしょうくでんしゅう
3. 老いた遊女に弟子入り
乙前が病で亡くなったあとには、明け方までたったひとりで歌い通して、その死を静かに弔ったとも今に語り継がれています。
乙前=おとまえ
4. 大半が散逸した歌謡集
しかしそのほとんどが長い歳月のなかで惜しくも失われてしまい、いまに残されているのは巻二の545首など、全体のうちのほんのごく一部だけです。
梁塵秘抄=りょうじんひしょう
5. 歴代最多の熊野詣で
たとえば父の鳥羽上皇の21回、孫の後鳥羽上皇の28回という記録と比べてみても、後白河の並外れた熱意と回数の多さがよくわかります。
紀伊=きい
熊野=くまの
6. 三十年に及ぶ院政の主
断続的にみると実際におよそ30年余りもの長きにわたり、政治の実権を握る治天の君として院政を敷いたのです。
治天の君=ちてんのきみ
7. 日本一の大天狗の異名
これは公卿の日記である玉葉に収められた一通の書状によるもので、実際には後白河の側近であった高階泰経を指しているという説もあります。
源頼朝=みなもとのよりとも
大天狗=だいてんぐ
玉葉=ぎょくよう
高階泰経=たかしなのやすつね
8. 三度も幽閉された法皇
1159年の平治の乱、1179年の治承三年の政変、そして1183年の木曾義仲による法住寺合戦が、まさにそれぞれの幽閉にあたります。
平清盛=たいらのきよもり
木曾義仲=きそよしなか
法住寺合戦=ほうじゅうじかっせん
9. 味方に裏切られた事件
この思いがけない突然の暴挙によって義仲は多くの人々の信望を一気に失い、やがて坂道を転がるようにあっけなく没落していったのです。
法住寺殿=ほうじゅうじどの
10. 清盛が建てた三十三間堂
うす暗く細長い広大な堂内には千手観音の立像がなんと1001体もずらりと整然と居並び、その名は建物の柱と柱の間が33あることに由来しています。
蓮華王院=れんげおういん
千手観音=せんじゅかんのん
11. 絵巻を集めた収集家
ところが、のちに起きた大きな火災で焼け落ちてしまい、その貴重な品々の多くが、今では残念ながら失われています。
絵巻物=えまきもの
宝蔵=ほうぞう
12. 将軍誕生の直前に死す
長年の政治的ライバルでもあった源頼朝が武家の棟梁である征夷大将軍に任じられたのは、その死からわずか約4か月ほどの後のことでした。
飲水病=いんすいびょう
征夷大将軍=せいいたいしょうぐん