後醍醐天皇の雑学10選!子ども30人超の子だくさん帝

鎌倉幕府を倒し、天皇みずからが政治を行う世を取りもどそうとした後醍醐天皇。

二度の討幕計画が失敗しても、隠岐の島へ流されても決してあきらめず、ついに幕府を打ち倒しました。

建武の新政に吉野の南朝、三十人を超える子ども、そして女装での脱出劇まで、その生涯は驚きと執念に満ちています。

歴史上でもとびきり個性的なこの天皇には、知れば誰かに話したくなるような逸話がたくさん残されています。そんな後醍醐天皇にまつわる雑学を10個ご紹介します。

1. 自分で決めた贈り名

「後醍醐」という名前は、本来なら亡くなった後に周りの人々が選んで贈るおくり名にあたります。

ところがこの天皇は、力強い政治を行ったとされる平安時代の醍醐天皇に強くあこがれ、自分自身の意志で、生前のうちにこの名を用いることを決めていたと伝えられています。

2. 二度の失敗にも屈せず

鎌倉幕府を倒そうとする討幕の計画は、正中の変(1324年)と元弘の変(1331年)という二つの大きな事件で続けて発覚してしまいました。

それでも気持ちをまったく折ることなく、何度も新たな手を打ちながら粘り強く立ち向かい続けた、たいへん強い執念を持った人物だったと考えられています。

3. 女装で御所を脱出

元弘の変で討幕の計画が幕府にすっかり知られてしまったとき、なんと女性の身なりに変装し、ひそかに御所を抜け出して逃げのびたと伝えられています。

きびしい追っ手の目をあざむくためにとっさに考え出した、たいへん機転のきいた行動だったのではないかといわれています。

4. 島流しから大脱出

討幕にやぶれて遠く離れた日本海の隠岐の島へと流されてしまいますが、わずか約1年後にはなんとその島から見事に脱け出すことに成功します。

船の積み荷の中にまぎれるなどして広い海をわたり、ふたたび都を目指したと伝わる、あきらめない人柄をとてもよく表した逸話です。

5. わずか数年で崩れた政治

天皇みずからが中心となって直接政治を動かしていく「建武の新政(1333年)」を始めましたが、その新しい体制は思いのほか長くは続きませんでした。

働きに見合う恩賞が出ないという不満から武士や貴族の反発が一気に広がり、わずか2、3年ほどでくずれてしまったとされています。

6. 前例より新しさを重視

「今あるしきたりも、そのまた昔の人にとっては新しいやり方だったのだ(朕が新儀は未来の先例たるべし)」という意味の有名な言葉を残したと伝わっています。

古くからの慣習にとらわれることなく、自分が良いと信じた新しい試みを思いきって進めていく、改革をとても好む考えの持ち主だったようです。

7. 三十人を超える子ども

たいへんな子だくさんの天皇として広く知られており、皇子と皇女を合わせて、なんと総勢30人以上ももうけたともいわれています。

数多くの皇子(護良親王や懐良親王など)がそれぞれ各地で活動したことが、その後に長く続いていく南北朝の争いにも大きな影響をあたえたと考えられているそうです。

8. 吉野に開いた南の朝廷

足利方の軍勢によって都である京を追われたあと、はるばるけわしい山あいにある奈良の吉野の地へと苦労してのがれていきます。

1336年にそこで南朝と呼ばれる新たな朝廷を開き、京の都を治める北朝とおよそ60年もの長きにわたって、激しく対立し続けていくことになりました。

9. 神器こそ正統の証し

皇位を正しく受けついだ何よりの証しとされる三種の神器について、本物はすべて自分の手元にあるのだと終始一貫して強く主張し続けました。

これを大きなよりどころとして、北朝に対し自分こそが正統な天皇であると、みずからの生涯の最後まで訴え続けたと伝まっています。

10. 死後に恐れられた存在

志を半ばではたせないまま無念のうちに亡くなったため、後の世では人々から怖ろしい怨霊として恐れられることもあったと伝わっています。

その荒ぶる魂をしずめ、手あつくなぐさめるため、吉野にある如意輪寺をはじめとして、ゆかりの寺がいくつも数多く建てられました。

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