江戸の混浴の雑学12選!幕府が何度禁止しても消えなかった

江戸の銭湯は、男女が同じ湯船に入るのが当たり前でした。幕府は何度も禁じましたが、そのたびに人々はうまくやり過ごし、混浴はなかなか消えませんでした。

湯船の入口が低くて中は薄暗かったこと、湯銭がたった数文だったこと、下田を訪れたペリー一行が驚いたこと。江戸時代の湯屋には、今の銭湯につながる話がいくつも残っています。

そんな江戸の混浴にまつわる雑学を12個ご紹介します。

混浴が当たり前だった江戸の湯屋

まずは、江戸の人にとって銭湯がどんな場所だったのかを見ていきます。今の銭湯とは、入り方も料金もずいぶん違っていました。

1. 江戸で最初の銭湯は1591年

江戸で最初の銭湯は、1591年に伊勢与市という人物が開いたものだと、記録の上では伝えられています。ただしこれを記した『慶長見聞集』は1614年頃に成立した書物で、後から聞き書きされた話とされます。

銭湯はその後の江戸で急速に広がり、19世紀の初めには500〜600軒台があったと伝えられます。町ごとに湯屋がある暮らしが、それだけ早く根づいたようです。

※『慶長見聞集』は江戸初期の見聞をまとめた随筆です。

2. 混浴は「入込湯」と呼ばれた

江戸の湯屋では男女が同じ湯船に入るのが普通で、こうした形は「入込湯」と呼ばれました。書物によっては「入り込み湯」などとも書かれています。

もとは日を分けて男女別に営業していたものが、客の少ない日に一緒になったのが始まりという説もあります。今の感覚とは違い、当時の人にとっては特別なことではなかったようです。

※「入込湯(いりこみゆ)」は男女が入り混じって入る湯のことです。

3. 湯船の入口にあった柘榴口

江戸の湯屋では、湯気を逃がさないように洗い場と湯船の間に低い板を下ろし、そこを屈んでくぐって湯に入りました。この入口が柘榴口です。

明かりに乏しく、中は湯の濁り具合さえ分からないほど暗かったと伝えられます。柘榴口のある浴場は1879年に禁じられ、湯屋は明るい浴室へと変わっていきました。

※「柘榴口(ざくろぐち)」は湯船の手前に設けられた低い出入口です。

4. 柘榴口という名は洒落から

柘榴口という変わった名前の由来には、屈んで入ることを指す「屈み入る」と、柘榴の酢で鏡を磨いたことから来る「鏡要る」、この二つを掛けた洒落だという説が知られています。

辞書にも載る有力な説ですが、語源には諸説あり、これが正解だとはっきり断定はできないとされています。

5. 湯銭は時代とともに上がった

湯屋の料金は湯銭と呼ばれ、寛永の頃からおよそ150年ものあいだ、大人6文前後で落ち着いていたといわれます。

その後は物価とともに上がっていきました。1841年には大人8文、子供6文、幼児4文と記録され、文久年間には12文、慶応元年に16文、慶応2年には24文まで上がっています。

※「文(もん)」は江戸時代に使われた銭の単位です。

幕府は何度も禁じたけれど

ここからは、混浴を取り締まろうとした側の話です。お達しは一度では終わりませんでした。

6. 湯女のいる風呂屋は禁じられた

江戸には湯女と呼ばれる女性を置いた風呂屋があり、人気を集めました。幕府は1651年に1軒あたり3人までと人数を制限し、1657年には取り締まりに乗り出しています。

一説には湯女は600人、店は200軒以上あったともいわれます。取り締まりの後、働いていた女性の多くは吉原へ移ったと伝えられます。

※「湯女(ゆな)」は客の背中を流すなどした風呂屋の女性です。

7. 混浴禁止令は一度では終わらず

男女で湯船を分けるよう命じる幕府のお達しは、寛政期の1791年頃から出されていたとされます。その後も天保の改革(1841〜43年)で、改めて取り締まりが行われました。

それでも入込湯はなかなか減らず、本当に姿を消したのは明治の中頃といわれます。禁令が何度も出されたこと自体が、この習慣の根強さを物語っています。

8. 時間や日を分けてやり過ごした

越後の高田藩では1743年、1745年、1769年と、3度にわたって混浴を禁じる通達が出されました。

風呂屋の側は、男女で入る時間帯を分けたり、男湯の日と女湯の日を決めたりして一時は応じたと記録されています。ただし監視が緩むと元に戻ってしまうことも多かったようです。

出典:上越市公文書センター(高田藩の風呂屋に関する資料)

混浴が消えるまで、そして今

最後は、混浴が姿を消していく流れと、今に残る決まりごとについてです。

9. ペリー一行が描いた浴場の図

1854年に下田を訪れたペリー一行は、男女が一緒に入浴する浴場を目にしました。同行した画家ハイネがその様子を写生し、報告書『日本遠征記』の図版に収められています。

本文には、アメリカ人にとって好ましいものには映らなかったという趣旨の感想が記されました。この図版は後の版では削除されています。

出典:ペリー『日本遠征記』/MIT Visualizing Cultures

10. 明治政府は段階を踏んで禁じた

混浴は明治に入ってから少しずつ姿を消していきます。1869年に東京府が風俗を正す町触を出し、1872年の違式詿違条例では罰金の対象になりました。

さらに1879年の「湯屋取締規則」で東京の湯屋が規制され、1900年には内務省令によって全国へ広がります。幼い子どもは例外とされたと伝えられます。

※「違式詿違条例(いしきかいいじょうれい)」は軽い違反を取り締まった明治初期の法令です。

11. 銭湯の富士山は江戸になかった

銭湯といえば壁の富士山ですが、これは江戸生まれではありません。1912年に神田猿楽町の「キカイ湯」で、経営者の依頼を受けた画家の川越広四郎が描いたものが最初とされます。

柘榴口が姿を消し、浴室が明るく開けた場所になったからこそ生まれた文化だといえます。江戸の湯屋とは、風景そのものが違っていたわけです。

12. 混浴できる年齢は今も下がる

公衆浴場で男女を分ける年齢については、国が目安を示しています。2000年の通知では「おおむね10歳以上」でしたが、2020年の通知で「おおむね7歳以上」に引き下げられました。

これを受けて東京都は2022年から、明石市は2024年から基準を改めています。実際の線引きは地域ごとの条例で定める仕組みです。

出典:厚生労働省通知(2020年)

まとめ

江戸の銭湯は男女が一緒に入る「入込湯」が普通で、湯船の手前の柘榴口をくぐると、中は薄暗い空間が広がっていました。幕府は寛政期から繰り返し湯船を分けるよう命じましたが、湯屋は時間や日を分けてしのぎ、混浴が本当に消えたのは明治の中頃です。

壁に富士山が描かれるようになったのも大正に入ってから。江戸時代の湯屋は、今の銭湯とはずいぶん違う場所だったようです。混浴できる年齢の目安は今も見直されていて、湯屋をめぐるきまりは少しずつ形を変えながら続いています。

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