手塚治虫の雑学12選!ブラックジャックは打ち切り予定

漫画の神様と呼ばれる手塚治虫は、『鉄腕アトム』や『ブラック・ジャック』を生み出した人として知られています。

けれども実際の姿は、医師の資格を持ち、後輩の絵に嫉妬し、会社を潰して巨額の借金を背負い、それでも最期まで鉛筆を手放さなかった、かなり人間くさい人物でした。

作品の裏側をのぞいてみると、天才という言葉だけでは片づかない一面が次々に出てきます。

そんな手塚治虫にまつわる雑学を12個ご紹介します。

天才の意外すぎる素顔

まずは、作品を読むだけでは見えてこない本人の横顔から。

医学の博士号や、後輩の漫画家に向けた思いがけない一言まで、人間くさいエピソードが並びます。

1. 医学博士論文はタニシの研究

手塚治虫は漫画家として知られていますが、医師の資格を持ち、医学博士でもありました。

昭和36年に奈良県立医科大学から授与された学位の論文は「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」というもので、マルタニシという淡水の巻き貝の精子細胞を電子顕微鏡で観察した内容です。

ファンの間では「タニシの研究」と呼ばれることも多く、代表作の華やかさとの落差が語り草になっています。

論文の著者名は、本名の手塚治で記されています。

出典:奈良県立医科大学の学位論文(1961年)

2. 君の絵なら描けると発言

手塚治虫は、他人の絵柄を再現する腕にもかなりの自信を持っていたようです。

緻密な描線で新しい時代をひらいた大友克洋と会った際、「僕は君の絵なら描ける」という趣旨のことを語ったと、江口寿史さんや寺沢武一さんら複数の漫画家が証言しています。

一方で、独特の作風で知られる諸星大二郎さんの絵は描けないと認めていたとも伝わります。

第一線に立ち続けた人が、後から出てきた描き手の絵をそこまで意識していたことがうかがえる話です。

3. 嫉妬から出た一言と謝罪

石ノ森章太郎が雑誌COMで発表した実験作『ジュン』は、コマの流れだけで詩のように物語を見せる作品でした。

これを高く評価した読者のファンレターに対し、手塚は返信で「あんなものはマンガではない」という趣旨のことを書き、それが石ノ森本人に伝わってしまいます。

傷ついた石ノ森は連載の打ち切りを申し出ますが、手塚は直接会いに行き、自分でもどうしてあんなことをしたのか分からないと謝りました。

二人は和解し、連載はその後も続いています。

4. 主人公は実の曽祖父だった

幕末を舞台にした『陽だまりの樹』の主人公は、手塚良庵という蘭方医です。

実はこの良庵、手塚治虫の実の曽祖父にあたる人物でした。

作者はその関係を作中でほとんど語らず、読者に明かしたのは最後の1コマだけです。

家に残された資料をもとに描かれたこの作品は、第29回小学館漫画賞を受賞しました。

※「蘭方医(らんぽうい)」は、江戸時代にオランダ由来の西洋医学を学んだ医師のことです

仕事ぶりと作品作りの秘密

続いては、あの作品量を支えた仕事のしかたと、独特な作品づくりの仕掛けについてです。

5. 1977年に6本を同時連載

1977年の手塚治虫は、『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『火の鳥』『ユニコ』『MW』という6本を同時に連載していました。

子ども向けから宗教や犯罪を扱う重い作品まで、読者層も作風もばらばらな連載を並行して抱え、睡眠時間を極限まで削りながら締め切りに向き合っていたといわれます。

1本でも大変な連載を6本、しかもどれも代表作として名前が残っているところに、この人の底知れなさがあらわれています。

6. 打ち切り前提だった代表作

『ブラック・ジャック』は、連載が始まった時点では数回で終わる短期の企画だったとされています。

担当編集者の証言では、4回から5回で無人島を舞台にした結末を迎える構想もあったそうです。

ところが読者の反応がよく、連載は約10年、200話を超える長さに育ちました。

当時の手塚は人気が伸び悩む時期を過ごしており、この作品が復活のきっかけになっています。

7. 火の鳥が未完に終わった理由

『火の鳥』は、遠い過去を描いた話と遠い未来を描いた話を交互に発表し、少しずつ現代へ近づけて、最後に現代で合流させるという構想で描かれていました。

公式サイトでも、一本の長い物語をはじめからと終わりから描きはじめる冒険だと説明されています。

1954年から断続的に約34年描き続けましたが、両端が出会う地点にたどり着く前に手塚が亡くなり、作品は未完のまま残されました。

8. キャラは専属の俳優扱い

手塚作品では、同じ顔のキャラクターが別の作品に別の役で登場します。

これはキャラクターを俳優として扱う「スターシステム」という手法で、宝塚歌劇や映画会社の専属俳優の仕組みを参考にしたものだといわれます。

ヒゲオヤジのような人気キャラにはブリリアント・ブラザースという所属事務所の裏設定まで用意され、悪役を演じても本人の性格とは別、という理屈で読めるようになっていました。

挫折と最期、その後の物語

最後は、大きな失敗と、その先の物語です。

倒産と借金、死の間際の言葉、そして亡くなったあとに起きた出来事まで見ていきます。

9. 虫プロ倒産で背負った借金

手塚治虫が自ら設立したアニメ会社の虫プロダクションは、1973年に3億5000万円の負債を抱えて倒産しました。

手塚個人も、推定1億5000万円ともいわれる借金を背負ったと伝えられます。

それでも彼は漫画を描くことをやめず、次々と連載をこなして数年のうちに返済したといいます。

作品を量産し続けた背景には、こうした切実な事情も重なっていたのかもしれません。

10. 最期まで鉛筆を求めた人

1989年2月9日、手塚治虫はスキルス胃がんのため60歳で亡くなりました。

周囲は本人に病名を告げておらず、彼は最後まで描きかけの仕事を気にしていたと伝えられます。

臨終に立ち会った手塚プロダクション社長の松谷孝征さんによれば、昏睡から意識が戻るたびに鉛筆をくれと言い、最期の言葉は「頼むから、仕事をさせてくれ」だったそうです。

11. ジャングル大帝の類似騒動

1994年に公開されたディズニー映画『ライオン・キング』は、手塚治虫の『ジャングル大帝』に似ているのではないかと大きな話題になりました。

漫画家やアニメ関係者ら488人が連名で質問状を送り、そのうち82人が漫画家だったと伝えられます。

ディズニー側は類似を否定し、手塚プロダクションも提訴はせず、手塚が生きていたら自分の作品がディズニーに影響を与えたのなら光栄だと言っただろう、とコメントしました。

12. アトムに交付された住民票

鉄腕アトムには、アニメのキャラクターとしては初めて特別住民票が交付されました。

交付したのは手塚プロダクションが本社を置く埼玉県新座市で、日付は作中でアトムが誕生したとされる2003年4月7日です。

住民票の世帯主の欄には、生みの親であるお茶の水博士の名前が記されました。

架空の存在に自治体が公の書類を出した、少し不思議な例といえます。

まとめ

医学博士の学位論文がタニシの研究だったこと、6本もの連載を同時に抱えていたこと、そして最期まで鉛筆を求め続けたこと。

並べてみると、手塚治虫という人を支えていたのは才能そのものより、描くことへの執着だったように見えてきます。

後輩の絵に嫉妬して謝りに行った話も、会社を潰した借金を漫画で返した話も、その執着の裏返しなのかもしれません。

次に作品を手に取るとき、こうした裏側を少しだけ思い出してみると、見慣れた1ページが違って見えてくるかもしれません。

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