菅原道真の雑学11選!怨霊から学問の神へ
学問の神様として全国の天満宮に祀られ、多くの受験生が合格を願って参拝する菅原道真。
しかし、その生涯は華々しい出世と無実の左遷、そして死後に恐れられた怨霊伝説と、驚くほど波乱に満ちたものでした。
梅をこよなく愛した心優しい人柄から、天変地異を起こしたと語り継がれる祟りの逸話まで、その姿は実にさまざまです。
そんな菅原道真にまつわる雑学を11個ご紹介します。
1. 幼き頃からの神童伝説
道真は幼い頃から学問の才能に恵まれていたと伝えられ、わずか5歳で和歌を詠み、11歳のときには「月夜見梅花」という漢詩を作り上げたとされます。
18歳では、役人を育てる大学寮で学生を選ぶ文章生の試験にも見事に合格し、周囲から神童と呼ばれ期待されていたようです。
2. 自ら止めた唐への使い
894年、道真は唐へ渡る使節団の代表である遣唐大使に任命されますが、その直後に自分から派遣の延期を朝廷へ願い出たと伝えられています。
その後、唐が国として滅んでしまったこともあり、長く続いてきた遣唐使の派遣は、そのまま自然に立ち消えになっていったようです。
3. 無実の罪で大宰府へ左遷
901年、道真は娘婿の斉世親王を天皇の位に就けようと企んだという、政敵である藤原時平の讒言によって、はるか遠い九州の地へと左遷されてしまいます。
この一連の出来事は昌泰の変と呼ばれ、後世では時平が仕組んだ事実無根の冤罪だったと今も広く考えられています。
4. 苦しかった左遷の日々
大宰府に送られた道真は、名ばかりで実際の仕事もない閑職に置かれ、給料さえ与えられず、雨漏りのするあばら家で寂しく暮らしたと伝えられます。
可愛がっていた息子たちも各地へ流されるなど、不遇のうちに日々を過ごし、903年に失意のまま生涯を閉じたとされています。
5. 主人を慕い飛んできた梅
道真は住み慣れた都を離れる際、東風吹かば匂ひおこせよ梅の花と、日頃から可愛がっていた梅の木への想いを歌に託して詠んだと伝えられます。
するとその梅が、主人である道真を慕うように、一晩のうちに大宰府まで飛んできたという飛梅の伝承が今も残されています。
6. 天満宮に牛の像がある理由
天満宮には撫で牛と呼ばれる牛の像が置かれていますが、これは道真が丑年の生まれだったことに由来すると伝えられています。
また、亡くなった道真の遺骸を運ぶ牛が途中で座り込んで動かなくなり、人々がその場所を墓所に定めたという言い伝えも各地に残っています。
7. 左遷に関わった人々の死
道真が世を去った後、左遷に関わった人々が次々と亡くなっていき、当時の人々はこれを道真の祟りではないかと噂したと伝えられます。
実際に909年には藤原時平が39歳で病死し、923年には皇太子の保明親王も21歳の若さで世を去るなど、不幸が相次いだとされています。
8. 清涼殿を襲った突然の落雷
930年、天皇の住まいである清涼殿に激しい雷が落ち、道真を監視する役目を担っていた藤原清貫をはじめ、多くの人々が命を落としたと伝えられます。
こうした説明のつかない不吉な災いが重なったことから、道真は日本三大怨霊の一人に数えられることもあるようです。
9. 恐れられた怨霊が学問の神に
はじめのうち道真は、祟りをもたらす怨霊として人々に恐れられ、雷を操る神として神社に祀られていました。
慌てた朝廷が生前の名誉を回復させる官位を追い贈って霊を鎮めようとするうち、いつしか学問の神様として親しまれる存在へと変わっていったとされます。
10. 前田利家が用いた梅の家紋
戦国時代の前田利家が用いた加賀梅鉢という梅をかたどった家紋は、前田家が菅原道真の子孫であると称したことに由来するとされています。
ただしこの子孫であるという説は、後世に作られた仮託の色合いが強いともいわれ、確かなことは今も分かっていないようです。
11. 老婆が差し入れた梅ヶ枝餅
福岡の太宰府名物として知られる梅ヶ枝餅には、左遷されて食べる物にも困っていた道真を見かねた老婆が、梅の枝に餅を添えてそっと差し入れたという心温まる伝承が残されています。
その優しい心遣いが、今日に伝わる梅ヶ枝餅の始まりになったのだと言われています。