参勤交代の雑学12選!大名行列の3分の1は臨時アルバイト

江戸時代の大名が大勢の家来を連れて江戸と国許を行き来した参勤交代。

時代劇では、槍を掲げた家臣が一糸乱れぬ隊列で街道を進む場面がおなじみです。

ところが実際には、行列の多くが臨時に雇われた人だったり、殿様が宿代を値切ったり、旅費が足りず立ち往生したりと、思い描く姿とはずいぶん違う一面が見えてきます。

制度の裏側には、人間くさいエピソードが数多く残されています。

そんな参勤交代にまつわる雑学を12個ご紹介します。

1. 財力を削る政策ではなかった

大名の財力を削る政策と語られてきましたが、この説は近年の研究で否定されており、狙いは主従関係の確認と忠誠を示すことにあったとされます。

ただし結果的に藩財政を圧迫したのは事実で、幕府も寛永12年(1635年)の武家諸法度で従者を減らすよう命じました。

2. 整列するのは宿場町の直前だけ

一糸乱れぬ行列を見せていたのは宿場町へ入る直前だけで、山道や農村を進むあいだは隊列がばらばらに崩れていたともいわれます。

家臣たちには夕刻までに宿場の入り口へ集合せよとだけ命じられており、そこまでの道中はそれぞれの足並みで歩いていたようです。

3. 行列の3分の1はアルバイト

加賀藩の文政10年(1827年)の行列は総勢1969人のうち686人が、およそ3分の1にあたる臨時雇いの通日雇で、六組飛脚問屋という業者から派遣されていました。

さらに江戸入りの直前には品川宿などで渡り者を雇い、衣装を着せてマナーを教えてから入府したと伝わります。

※「通日雇(とおしひやとい)」は道中を通して雇われた臨時の人足のことです。
※「渡り者(わたりもの)」は決まった主人を持たず各地を渡り歩いた奉公人です。

4. 吉宗も削減を諦めていた

徳川吉宗は享保6年(1721年)に石高別の人数規定を定めましたが、削減を進言した室鳩巣に対し、紀州にいた頃に減らしたものの1年で元に戻ってしまったと語ったとされます。

人数を抑える試みは寛永12年(1635年)の武家諸法度から続いており、定着しなかったようです。

※「室鳩巣(むろきゅうそう)」は徳川吉宗に仕えた儒学者です。

5. 本当の出費は江戸暮らし

加賀藩では文化5年(1808年)、10代藩主の前田治脩が国許へ帰る片道の費用が銀332貫余、約5500両でした。

一方で藩の年間経費に占める江戸での支出は4割台から8割近くに達し、多くは6割から8割ほどでしたから、往復の旅費は江戸での支出の10分の1程度にすぎません。

※「前田治脩(まえだはるなが)」は加賀藩の10代藩主です。

6. 旅費が尽きて泣いた殿様

庄内藩7代藩主の酒井忠徳は江戸生まれ江戸育ちで、数え18歳で初めて国許へ向かう入部の旅の途中、福島で路銀が尽きたと伝わります。

国許から金が届くまで足止めされ、表高14万石の藩がなんたる不如意かと涙したと語り継がれ、藩の内情を示す話として知られています。

※「入部(にゅうぶ)」は藩主が江戸から国許へ入ることです。
※「不如意(ふにょい)」は暮らし向きが苦しいことを指します。

7. 殿様が宿代を5文値切る

萩藩は安永10年(1781年)、矢掛宿の旅籠代が1人143文だったのを128文にするよう求め、最終的に138文で決着しました。

値引きは1人あたりわずか5文でしたが、行列は600人から700人ほどだったといわれ、宿場側は一度断ったものの身分差で押し切られてしまったようです。

※「矢掛宿(やかげしゅく)」は現在の岡山県矢掛町にあった宿場です。

8. 「下に下に」は御三家まで

下に、下にという掛け声を使えたのは将軍と御三家の行列だけで、一般の大名行列では片寄れーやよけろーと呼びかけました。

他藩の行列には道を譲るか下馬すれば済み、土下座までは求められませんでしたが、自分の藩の領民だけは自国の殿様の行列に土下座しました。

※「御三家(ごさんけ)」は尾張・紀伊・水戸の徳川家を指します。

9. 薩摩は片道440里の長旅

薩摩藩から江戸までは440里、およそ1716kmもの距離があり、片道だけでも40日から60日ほどかかったと伝わります。

11代藩主の島津斉彬が嘉永5年(1852年)に行った参勤では、8月23日に鹿児島を発ち、10月9日に江戸へ着くまで47泊48日という長い道のりを歩き通しています。

※「島津斉彬(しまづなりあきら)」は薩摩藩の11代藩主です。

10. 2泊3日で着いた藩もある

下妻藩では天保5年(1834年)、10代藩主の井上正健が7月23日に出発し、栗橋宿と越谷宿に泊まり25日には江戸へ到着しています。

もともと江戸定府で参勤の義務はありませんでしたが、寛政元年(1789年)に6代藩主の井上正広が自ら国入りを願い出たことで始まりました。

※「下妻藩(しもつまはん)」は現在の茨城県にあった藩です。
※「江戸定府(えどじょうふ)」は藩主が国許へ帰らず江戸に住み続けることです。

11. 参勤を免除された大名

水戸徳川家は江戸定府で参勤がなく、対馬藩の宗氏は3年に1度、松前藩は5年に1度で、負担は藩ごとに違いました。

喜連川藩は無高で実高5000石ながら足利尊氏の子孫として10万石格の待遇を受け参勤も免除されましたが、毎年12月に自主的に江戸へ参府していたと伝わります。

※「喜連川藩(きつれがわはん)」は現在の栃木県にあった藩です。
※「無高(むだか)」は石高が正式に定められていないことです。

12. 緩めたら二度と戻せない

幕府は文久2年(1862年)8月の文久の改革で参勤を3年に1度、江戸滞在を100日に緩め、妻子の帰国も認めました。

ところが元治元年(1864年)9月、禁門の変の翌月に旧制度へ戻そうとしたところ従わない藩が相次ぎ、幕府に求心力が残っていないことが露わになりました。

※「禁門の変(きんもんのへん)」は元治元年に長州藩が京都で幕府側と衝突した事件です。

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