ピカソの雑学12選!モナリザ盗難で警察に呼ばれた男
20世紀を代表する画家、パブロ・ピカソ。名前は知られていても、人生の中身はあまり語られません。
生まれた直後に死産と判断され、14歳で1か月の課題を1日で片づけ、モナリザ盗難事件では警察に呼ばれ、FBIには長年監視されました。遺言を残さないまま世を去り、いまも世界一盗まれている画家です。
絵の巨匠というより、事件簿の主人公のようです。
そんなピカソにまつわる雑学を12個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。
長い名前と早すぎた才能
まずは、ピカソという人が世に出るまでの話から。名前の長さも、生まれた日の出来事も、少年時代の伝説も、どこか話が大きくなりがちなところが共通しています。
1. 本名は資料ごとに違う
ピカソの本名が長いことはよく知られています。ブリタニカは「Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Crispín Crispiniano María de los Remedios de la Santísima Trinidad Ruiz Picasso」と記す一方で、名前の順序は資料によって異なるとも書き添えています。英語版ウィキペディアが載せる洗礼記録の並びとも一致しません。
日本でよく見かける何文字、名前がいくつという具体的な数字は、たどれる出典が見当たりません。長さより、正解が定まっていないところが面白い名前です。
出典:ブリタニカ
2. 死産と判断された赤ん坊
1881年にマラガで生まれたピカソは、取り上げた助産婦に死産と判断されたと伝えられています。周囲があきらめかけたとき、居合わせた医師の叔父ドン・サルバドールが葉巻の煙を赤ん坊の鼻に吹き込みました。すると赤ん坊は驚いたように泣き出し、息を吹き返したというのです。
ただしこの話は一族に伝わる言い伝えで、同時代の記録は残っていません。真偽はさておき、生まれた瞬間から劇的だったことにしておきたくなる逸話です。
3. 1か月の課題を1日で
14歳のピカソはバルセロナの美術学校ラ・リョッジャを受験しました。入学試験では1か月の猶予が与えられる課題が出されましたが、ピカソはそれをたった1日で仕上げて提出し、合格したとされています。この逸話はパリ国立ピカソ美術館の公式サイトでも紹介されているものです。
ただし当時の試験記録そのものは残っておらず、細部は確かめようがありません。父親も美術教師で、幼いころから絵の手ほどきを受け続けていた点は、差し引いて読む必要がありそうです。
出典:パリ国立ピカソ美術館 公式サイト
巨匠の素顔と巻き込まれた事件
絵の評価とは別に、ピカソの周囲では騒がしい出来事が絶えませんでした。ここからは、本人の人となりと、その名前が記録に残ってしまった事件を見ていきます。
4. モナリザ盗難で事情聴取
1911年にルーブル美術館からモナリザが盗まれたとき、ピカソは警察に呼ばれて尋問を受けています。無関係とも言い切れない事情がありました。詩人アポリネールの元使用人がルーブルから持ち出した古代イベリアの石像2体を、ピカソが買い取って自宅に隠していたのです。
モナリザとは別件でアリバイもあり釈放されましたが、スペインへ送り返されることを本気で恐れたそうです。石像は匿名で美術館に返され、その造形は1907年の『アヴィニョンの娘たち』の顔つきに影を落としています。
出典:History.com、Artsy
5. 切った爪と髪を捨てない
ピカソは切った爪や髪を捨てずに取っておきました。理由は、それを使って自分に呪いをかけられるのを恐れたからです。娘のマヤ・ルイス=ピカソは、父が爪の切りくずを自分にくれたことを語り、他人の手に渡って呪いに使われるのをひどく怖がっていたと証言しています。
近代絵画のかたちをまるごと作り変えた人物が、体の切れ端に宿る力だけは疑わなかったわけです。合理と迷信は、同じ頭の中で平気で同居するようです。
出典:Artnet News(マヤ・ルイス=ピカソのインタビュー)
6. 路上の声かけから始まる
1927年1月8日、45歳のピカソはパリのギャラリー・ラファイエット前で17歳のマリー=テレーズ・ヴァルテルに声をかけました。面白い顔をしている、肖像を描きたい、私はピカソだ。そんな言葉だったと伝えられます。
当時ピカソは妻オルガと結婚しており、この関係は1935年まで8年間伏せられました。
最後の妻となるジャクリーヌ・ロックも、26歳のときに72歳のピカソと出会っています。12年の結婚生活で400点以上の肖像画のモデルになり、1963年の1年だけで160点という記録も残ります。
※ヴァルテルは1977年に68歳で、ジャクリーヌは1986年に60歳で、いずれも自ら命を絶っています。
7. 唯一自分から去った女性
ピカソのもとを自分の意思で去った女性は、生涯でただ一人と言われます。21歳で61歳のピカソと出会った画家フランソワーズ・ジローは、1953年に自分から関係を断ちました。
1964年には回想録『Life with Picasso』を出版し、ピカソは出版差し止めを求めて3度提訴し、3度とも敗れています。娘パロマの証言によれば、3度目の敗訴のあとピカソは彼女に電話をかけ、おめでとうと言ったそうです。
ジローはその後も画家として独立した評価を得て、101歳まで生きました。
出典:NPR
8. FBIに監視された画家
FBIはピカソの個人ファイルを作っており、その分量は187ページに及びました。長官J・エドガー・フーヴァーが監視を指示したのは1945年1月で、分類は共産主義関連を意味する「Security Matter – C」。監視は1971年まで断続的に続きましたが、ファイルの中に破壊活動の証拠は一つも見つかっていません。
1950年には平和使節団の一員として渡米しようとしてビザを拒まれました。ピカソは1944年にフランス共産党へ入党して生涯党籍を保ち、1962年にレーニン平和賞を受けています。
※1953年にスターリンの追悼肖像を寄せた際は、似ていないとして党から公式に非難されました。
出典:FBI開示文書
作品が起こした死後の騒動
ピカソは1973年に亡くなりますが、作品のほうはその後も動き続けます。最後は、絵をめぐって起きた出来事をたどります。
9. 42年帰れなかった大作
『ゲルニカ』は1937年に描かれながら、42年ものあいだスペインへ戻れませんでした。1939年にニューヨーク近代美術館へ預けられ、ピカソはスペインに公的な自由と民主主義が戻るまで返さない意向を示していたとされます。フランコ政権が続くかぎり、絵には帰る場所がなかったわけです。
実際にマドリードへ渡ったのは1981年9月10日で、ピカソの死からすでに8年が過ぎていました。現在はソフィア王妃芸術センターにあります。
作品そのものが、国の時計を測る物差しになっていた例です。
出典:History.com、ブリタニカ
10. 遺言を残さずに死んだ
1973年4月8日、ピカソは南仏ムージャンで91歳で亡くなりました。遺言はありませんでした。
裁判所が任命した鑑定人の目録によれば、遺された作品は油彩約1,885点、彫刻約1,228点、素描約7,089点、スケッチブック約150冊などで、総計およそ45,000点。ほかに現金約450万ドル、金塊約130万ドル、住宅5軒もありました。
相続人は複数の家庭に散らばっており、分割が終わったのは6年後の1979年。弁護士費用などに約3,000万ドルが費やされたと伝えられます。
11. 電気技師のガレージから
ピカソ邸に防犯アラームを設置した電気技師ピエール・ル・ゲネックは、未登録の作品271点を約40年間ガレージにしまっていました。1900年から1932年ごろの版画や水彩、素描で、キュビスム期のコラージュ9点を含み、評価額は6,000万ユーロ以上とされます。
2010年に本人が名乗り出て鑑定を依頼したことで発覚し、2015年には盗品所持で有罪判決を受けました。ところが2018年3月、破毀院が盗難の証明は不十分だとして破棄します。本人はジャクリーヌから箱ごと贈られたと主張し続けました。
出典:ARTnews ほか
12. 世界一盗まれている画家
美術品盗難のデータベース、アート・ロス・レジスターの集計では、盗難や行方不明として登録されているピカソ作品は1,147点にのぼります。2位のニック・ローレンスが557点ですから、倍以上の差です。3位はシャガールの516点、以下カレル・アペル505点、ダリ505点、ウォーホル343点と続きます。
人気があり、点数が多く、小ぶりで持ち出しやすい作品も多いことが重なった結果でしょう。生涯描き続けた画家は、死後も世界で最も動きの多い画家であり続けています。
出典:Art Loss Register
まとめ
ピカソは生まれた瞬間から劇的な逸話に包まれ、名前の並びさえ資料ごとに違うまま伝わってきました。一方でFBIの187ページ、遺された作品の約45,000点、盗難登録の1,147点といった数字は、はっきりした記録として残っています。
伝説がふくらむ人物ほど事実との境目は見えにくくなるものですが、ピカソの場合はむしろ記録が多すぎて、どこまでが本当かを確かめる作業のほうが忙しくなります。次に美術館でピカソの絵を見かけたら、その一枚がどんな道をたどってそこにあるのか、少し想像してみてください。