インカ帝国の雑学12選!死んだ皇帝がミイラで宮殿暮らし

南米アンデスの山々に築かれたインカ帝国は、最盛期には南北5000kmにおよぶ大国でした。

文字も貨幣も車輪も持たないまま、銀貨1枚も入らない石組みの都市と3万kmを超える道路網をつくり上げ、紐の結び目だけで人口や倉庫の中身まで管理していたといいます。

その大国が、168人ほどのスペイン人に皇帝を奪われて崩れていきました。

そんなインカ帝国にまつわる雑学を12個ご紹介します。

研究にもとづく項目には出典を添えています。

皇帝と国を支えたしくみ

まずは、インカがどんな考え方で国を動かしていたのかを見ていきます。

皇帝と財産、そして記録のあり方には、いまの感覚とはずいぶん違う決まりごとがありました。

1. 死んだ皇帝も宮殿暮らし

インカでは歴代の皇帝が亡くなるとミイラにされ、生きている人のように宮殿で暮らし続けたと伝えられます。

大きな祭りの日には年の順に広場へ運び出され、食事や酒を供えられました。

そばに控えた世話役が本人に代わって意向を語り、結婚の許しまで出したといいます。

皇帝は亡くなっても一族の中心であり続け、その意向が政治の場でも重みを持っていたようです。

2. 新皇帝が継げるのは地位だけ

亡くなった皇帝の宮殿や土地、使用人は、その皇帝の子孫がつくるパナカという一族が管理し続けたとされ、次の皇帝が受け継げるのは政治的な地位だけでした。

つまり新しい皇帝は、自分の宮殿も財産も一から手に入れるしかありません。

そのためには新しい土地を征服するのが早道で、この仕組みがインカの急な拡大を後押ししたという説があります。

ただしこれは1980年代に提唱された学説で、当時から批判する論文も出ており、決着のついた話ではありません。

※「パナカ」は、亡くなった皇帝の子孫がつくる一族のことです

3. 紐の結び目で国勢調査

文字を持たなかったインカは、キープと呼ばれる色つきの紐の結び目で数を記録し、人口や貢ぎ物の量、倉庫の中身まで管理していました。

結び目の位置が桁を表し、その場所に結び目がないことがゼロを意味する、十進法に近い仕組みだったと考えられています。

植民地時代には異教的な内容を含むキープが破壊の対象となり、多くが失われました。

※「キープ」は結縄とも呼ばれる、紐で数を記録する道具です

技術と暮らしを支えた知恵

ここからは、高い山の上で暮らすための工夫の話です。

道や橋、石組みから食べ物や医療まで、限られた道具でどこまでできたのかが見えてきます。

4. 海の魚が山の都へ届く

インカ道には数kmおきに中継所が置かれ、チャスキと呼ばれる走者がリレー方式で伝令や荷物を運びました。

植民地時代の年代記は、海岸から350kmほど離れた標高3400mのクスコまで、新鮮な海の魚が届いたと伝えています。

走る速さは1日200〜300kmほどとされ、書き残した記録者自身が信じがたいと添えるほど、びっくりするような言い伝えも残っています。

5. 車輪も馬もない道路大国

インカには車輪を使う乗り物も、重い荷を引く馬や牛のような家畜もいませんでした。

鉄の道具すらないまま、険しい山や深い谷を越えて総延長3万kmを超える道路網を築いています。

カパック・ニャンと呼ばれるこの道は、いまのペルーやチリなど6か国にまたがっており、荷物を運ぶのはリャマの隊列と人の足だけでした。

6. 銀貨1枚も入らない石壁

インカの石積みは接着剤を使っていないのに、石と石のあいだに銀貨1枚も差し入れられないと、16世紀のスペインの記録者が書き残しています。

壁は内側にわずかに傾き、窓や扉は上が狭い台形になっていました。

1650年と1950年のクスコの地震では、上に建てられた植民地時代の教会が崩れる一方で、土台のインカの石壁は持ちこたえています。

7. 毎年編み直す草の吊り橋

ペルーのケシュワチャカ橋は、草を編んだ綱だけでできた吊り橋です。

近くに暮らす4つの集落の人々が毎年6月に集まり、山の草を刈って綱をより直し、3日ほどで橋を架け替えます。

およそ500年前から続くとされ、ユネスコの無形文化遺産にも登録されていますが、行事が行えなかった年には橋が落ちたこともありました。

8. 足で踏んで作る保存食

インカの人々は、高地の夜の冷え込みでジャガイモを凍らせ、昼に足で踏んで水分を絞り、天日で乾かす作業を繰り返しました。

こうしてできたチューニョは数年もつ軽い保存食で、フリーズドライ食品の元祖ともいわれます。

アンデス高地には在来のジャガイモが4000品種を超えるとされ、この加工の知恵とともに人々の暮らしを支えてきました。

9. 頭に穴を開ける手術の腕前

インカ期のペルーでは、頭蓋骨に穴を開ける手術が広く行われていました。

生前に穴を開けられた頭の骨を集めて分析した研究によると、インカ期の患者の生存率は75〜83%ほどと推定されています。

それから350年ほど後、アメリカの南北戦争のころに行われた同じような手術では、死亡率が46〜56%だったと報告されています。

現代のような医療の設備がない時代に、長い経験の積み重ねでここまでの成績に届いていたことになります。

※骨の穴のふちが治りかけていれば、手術のあとも生きていたと判断できます

出典:Kushner・Verano・Titelbaumらの研究チーム(World Neurosurgery・2018年)

帝国の最期と受け継がれた名

最後は、帝国が崩れていく場面と、その後に残ったものの話です。

終わり方を追いかけると、1533年で話が終わっていないことが分かります。

10. 168人が皇帝を生け捕り

1532年11月、ピサロが率いる168人ほどの一隊が、皇帝アタワルパをカハマルカの広場に招き入れ、そのまま急襲して生け捕りにしました。

アタワルパは数万の兵を従えていましたが、その多くは町の外の陣営におり、広場にいたのは武器を持たない随行者が中心でした。

不意を突かれた形になり、スペイン側に重い傷を負った者はほとんど出なかったと伝えられます。

皇帝ひとりを押さえられたことで、広大な帝国が身動きを取れなくなりました。

11. 部屋一杯の黄金を払った末に

捕らえられたアタワルパは、自分が閉じ込められた部屋を金銀で満たすと申し出ました。

各地の神殿や宮殿から金の板や装飾品が運ばれ、集まった金は6トンを超えたといわれます。

美術品の多くはその場で溶かされ、延べ棒に変えられて形を失いました。

それでもアタワルパが解放されることはなく、1533年7月に処刑されています。

火あぶりを言い渡された彼は、遺体が焼かれると来世へ行けないと信じていたと伝えられ、洗礼を受けることで絞め殺す刑に変えてもらいました。

12. 帝国の名はラッパーへ

1533年で帝国が終わったように見えますが、続きがあります。

スペイン側は同じ年にマンコ・インカを言いなりになる皇帝として立てましたが、彼は1536年に蜂起し、翌年には山奥のビルカバンバへ移って抵抗を続けました。

この抵抗は1572年にトゥパク・アマル1世が処刑されるまで続きます。

ビルカバンバ最後の君主となった彼の名は、1780年に大反乱を起こしたトゥパク・アマル2世へ受け継がれ、さらにアメリカのラッパー2Pacの名の由来にもなりました。

まとめ

インカ帝国は、文字も貨幣も車輪も持たないまま、3万kmを超える道路網と銀貨1枚も入らない石組みを残しました。

数の記録は紐の結び目が受け持ち、食料は足で踏んで作る保存食として蓄えられ、頭に穴を開ける手術の生存率は350年後の軍医を上回っていたと推定されています。

一方で、亡くなった皇帝が財産を持ち続ける仕組みが領土の拡大を後押ししたという説もあり、その豊かさは身代金として運び出される結末にもつながりました。

調べていて面白いのは、消えたように見える帝国の名前が、遠く離れた現代の音楽の世界にまで残っている点です。

アンデスの山道の写真を見かけたら、少し違って見えるかもしれません。

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