北条時宗の雑学11選!34歳で散った元寇の英雄の生涯
鎌倉幕府の第8代執権・北条時宗。わずか18歳で国のトップに立ち、二度にわたる元寇というかつてない国難に、まだ30代前半という若さで正面から立ち向かった人物です。
反抗勢力を容赦なく退けた強硬で苛烈な一面を持つ一方、南宋出身の禅僧に深く学び、敵味方の別なく戦没者を弔うために寺を建てるなど、静かで深い祈りの心も併せ持っていました。
34歳という若さでこの世を去った、激しくも短い生涯。そんな北条時宗にまつわる雑学を11個ご紹介します。
1. 名執権を父に持つ
父は「名執権」として広く称えられた鎌倉幕府5代執権・北条時頼で、時宗は幕府の実権を握る得宗家の嫡子として、1251年にこの世へ生まれました。
生まれながらに次の時代の幕府を背負う立場にあり、幼い頃から後継者としての重い期待を一身に受けて育ったと伝わっています。
2. 14歳で連署に就任
1264年、時宗はまだわずか14歳の若さで、執権を補佐する幕府の要職「連署(れんしょ)」に就任しました。
これは当時としても異例の若さで、まだ少年といえる年齢ながら、周囲から次代を担う指導者として大きく嘱望され、早くも幕府の表舞台に立っていたことがよく分かります。
3. 18歳の若き執権
1268年、時宗はまだわずか18歳という若さで、鎌倉幕府8代執権の重い座に就きました。
7歳で元服し9歳で幕政に加わるなど、幼い頃から徹底したエリート教育をしっかりと受けており、若くして国全体のかじ取りを任されるだけの素地が、周到に整えられていたことがうかがえます。
4. 二月騒動で一掃
1272年、時宗は異母兄の北条時輔や名越一族を、謀反の疑いをかけて次々と討ち取っていきました。
反抗しそうな勢力を退けて自らの権力を一気に固めた出来事で、後に無実だったとされる者も含まれており、時宗が持っていた苛烈で容赦のない一面が色濃くにじむ事件といえます。
5. 元の使者を斬首
服属を強く迫ってきた元(モンゴル帝国)の使者ら5人を、時宗は1275年に鎌倉の龍ノ口で次々と斬首しました。
大国からの圧力にも一歩たりとも譲らない強硬な姿勢と、まだ若い執権とは思えないほど迷いのない果断な決断力を、鮮やかに物語る象徴的な出来事だといえるでしょう。
6. 莫煩悩の三文字
時宗の師である南宋出身の名高い禅僧・無学祖元は、彼に「莫煩悩(まくぼんのう=思い悩むな)」という三つの文字を贈りました。
度重なる国難に押しつぶされそうになっていた若き執権を、静かに、しかし力強く励まし支え続けた言葉として、今にまで大切に語り継がれています。
7. 二度の元寇を撃退
1274年の文永の役と1281年の弘安の役という、モンゴル帝国による二度の大きな侵攻を、時宗は最高指揮官として次々と退けました。
国の命運を一身に背負い、かつてない未曾有の危機に真正面から立ち向かった、まさに日本の歴史に大きな名を深く刻んだ中心人物だったのです。
8. 円覚寺を創建
時宗は元寇で命を落とした人々を、敵味方の区別なく手厚く弔うため、1282年に鎌倉の地へと円覚寺を建てました。
寺を開いたのは師の無学祖元で、敵兵をも悼むというその創建には、争いや憎しみを乗り越えて死者のすべてを思いやる、深く清らかな祈りの心が込められているのです。
9. 死の直前に出家
1284年、時宗は病で亡くなる直前になって、妻の覚山尼とそろって師の無学祖元のもとで出家しました。
禅の教えに深く帰依し、激動の生涯を通じて心のよりどころとし続けていた時宗の生き方を、この人生の最期の静かな行いこそが、何よりもよく物語っているといえるでしょう。
10. 34歳で世を去る
二度の元寇を退けてからわずか3年後の1284年、時宗は34歳という若さで、病により静かに世を去りました。
過労死説や結核説などさまざまに語られていますが、国難と長く戦い続けた激しく短い生涯を終えるそのあまりに早い死の原因は、今なおはっきりとは分かっていないのです。
11. 妻が縁切寺を開く
時宗の妻・覚山尼は、夫の死後の1285年になって、鎌倉の地へと東慶寺を新たに開きました。
この寺はその後約600年もの長きにわたり、つらい夫のもとから逃れたい女性を救う「縁切寺(駆け込み寺)」として機能し、数え切れないほど多くの人々に頼りにされ続けた場所なのです。
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