平安京の雑学11選!羅城門の2階は死体置き場だった
平安京は、794年に桓武天皇が遷都した都で、現在の京都のもとになった場所です。
唐の都・長安を手本に、道路を碁盤の目のように区切ってつくられた計画都市で、その後およそ1000年以上にわたって日本の中心として栄えました。
整然として美しい都に思えますが、その姿をよく見ていくと、意外な素顔や知られざるエピソードがたくさん隠されています。
そんな平安京にまつわる雑学を11個ご紹介します。
1. 朱雀大路の異常な広さ
平安京の中心を南北に貫く朱雀大路は、全体の幅がおよそ84メートル、路面だけでも70.2メートルもありました。
約4キロ続くこの道は、今の道路でいえば20車線分ほどにあたり、日常の行き来には広すぎるほどで、都の権威を見せつけるための大通りだったと考えられています。
2. 城壁を持たなかった都
平安京は、城壁に囲まれた唐の長安を手本にしながら、都をぐるりと囲む羅城という城壁はほとんど築かれませんでした。
羅城門の左右にわずかな部分がつくられただけで、東の鴨川や西の桂川、北にそびえる山々を自然の守りとしてうまく生かしていたと伝えられています。
3. 願いを込めた異例の命名
歴代の都はその土地の地名にちなんで名づけられるのがふつうで、本来であるならば「葛野京」となるはずでした。
しかし前の都だった長岡京で災いが続いたため、「平らかで安らかであるように」との願いを込めて、平安京という異例の名前がつけられたといわれています。
4. わずか10年で捨てられた長岡京
桓武天皇は784年に長岡京の造営を始めましたが、わずか10年ほどでこの都を捨ててしまいました。
造営の責任者だった藤原種継が785年に暗殺され、無実を訴えながら亡くなった早良親王の怨霊への恐れなども、都をこの地へ移した一因になったとする説があります。
5. 半分しか使われなかった都
平安京の西半分にあたる右京は、低い湿地が多くて住みにくく、10世紀後半には荒れた場所が目立つようになりました。
982年の『池亭記』には人が去り家が壊れゆく様子が描かれ、本格的に人がいなくなるのは11世紀以降ともいわれ、都は東半分を中心に発展しました。
6. 羅城門の楼上は死体置き場
荒れ果てた羅城門の2階部分には、引き取り手のない死体が運び込まれ捨てられていたと伝えられています。
『今昔物語集』に残る若い盗人と老婆の説話はまさにこの場所を舞台にしており、のちに芥川龍之介の小説『羅生門』の題材になったことでも広く知られています。
7. 東寺だけが残った理由
羅城門をはさんだ左右には、東寺と西寺という二つの官立の寺が対になって建てられていました。
823年に東寺は空海へ、西寺は守敏へとそれぞれ託されましたが、西寺はその後、990年の火災などで次第に衰えて廃れてしまい、今日まで残っているのは東寺だけとなっています。
8. 京都御所は本来の場所ではない
天皇の住まいと多くの役所を合わせた大内裏は、もともと今の京都御所より1.7〜2キロほど西の場所にありました。
そのため天皇はたびたびの火災で仮住まいを転々とすることになり、御所が現在の場所に落ち着いたのは1331年よりあとのことだと考えられています。
9. 平安京のトイレ事情
平安時代の貴族は「樋箱(ひばこ)」と呼ばれる持ち運びのできるおまるを使って用を足していました。
一方で庶民の多くは道端でそのまま用を済ませることが多く、そうした汚物は街なかをうろつく犬が食べて処理していたともいわれますが、これについては諸説あるようです。
10. 平安京の警察「検非違使」
都の治安がしだいに悪くなったことを受けて、816年ごろの嵯峨天皇の時代に、検非違使という新しい役職がつくられました。
これは律令という法律に定めのない令外官と呼ばれる役職で、今でいう警察と検察の両方を合わせて兼ねたような組織だったといわれています。
11. 当時屈指の大都市だった
平安京の人口はおよそ12万人ほどだったと推定されており、当時の日本ではほかの都市を大きく圧倒する規模の大都市でした。
研究者によっては、都の末期の人口を15万から18万人ほどとする推計もあり、まさに当時の日本国内でも屈指の巨大都市だったと考えられています。