ベルリンの壁に関する豆知識

冷戦の象徴として知られるベルリンの壁は、1961年に東ドイツが自国民の西側への流出を防ぐため突如として建設し、ベルリンの街を東西に分断しました。

家族や友人を引き裂いたこの壁は、28年もの間市民の自由を奪い続けましたが、1989年に歴史的な崩壊を迎えます。

現在では平和の尊さを伝える遺跡として、世界中から多くの人々が訪れています。

今回は、そんな激動の歴史を持つベルリンの壁の豆知識を12個ご紹介します。

1. 壁はただ1つの壁ではなく2つだった

ベルリンの壁は単一の構造物ではなく、内壁と外壁の2重構造で構築されており、間に「死の地帯」という監視空間が存在していました。

この空間には軍用犬や見張り塔などが厳重に配置されており、東から西へ向かう市民の逃亡を徹底的に阻止する役割を担いました。

2. 崩壊は勘違いから始まった

東ドイツの報道官が旅行規制の緩和を「直ちに」開始すると誤発表した出来事が、歴史的な壁崩壊の大きなきっかけとなりました。

テレビ放送を見た市民が検問所へと殺到して警備隊はゲート開放を余儀なくされたため、長く続いた東西分断の歴史はあっけなく幕を閉じました。

3. 建設はたった1日で始まった

1961年8月のある夜、東ドイツ政府は極秘裏に準備を進めていた作戦を突如として実行に移し、西ベルリンとの境界線を鉄条網で封鎖しました。

市民が翌朝目覚めると街はすでに真っ二つに分断されており、家族や親しい友人と会うことすらできなくなる悲劇が起きたのです。

4. 西ベルリンは東ドイツの中の島だった

壁は東西の境界線だけに存在したと思われがちですが、実際には西ベルリンの周囲すべてをぐるりと囲むように建設されていました。

全長155キロメートルにも及ぶ壁によって完全に包囲された西ベルリンは、東ドイツという海に浮かぶ孤島のような状態でした。

5. 正式名称は「反ファシスト防壁」だった

東ドイツ側がその壁につけた公式名称は「反ファシスト防壁」であり、西側からの危険な侵入を防ぐという大義名分となっていました。

しかし真の目的は、豊かな生活を求めて西側へ逃亡する国民の流出を阻止することであり、自由を奪うための残酷な檻だったのです。

6. 西側は落書きだらけ、東側は真っ白

西ベルリン側の壁は市民が自由に近づくことができたため、色鮮やかなアートや平和を願うスローガンで埋め尽くされていました。

対照的に東側の壁は厳重な監視により市民が近づくことすら一切許されておらず、一切の落書きがない真っ白な状態のままでした。

7. 逃亡成功者は約5000人

壁が存在した28年という長い年月の間に、東ドイツから西側への危険な逃亡に成功した市民はおよそ5000人に上ると言われています。

彼らは地下に秘密のトンネルを掘ったり、自作の熱気球で上空を飛行したりするなど、命がけの様々なアイデアを駆使して自由を勝ち取りました。

8. 壁と壁の間にウサギが繁殖していた

内壁と外壁に挟まれた「死の地帯」は人間が立ち入れない空間でしたが、野生のウサギにとっては皮肉にも安全な楽園となっていました。

天敵から守られた環境で彼らは平和に繁殖を続けていましたが、歴史的な壁の崩壊とともにその安住の住処を失うことになりました。

9. トンネル57は最も多くの人を逃がした

市民が命がけで掘った地下道の中で、「トンネル57」と呼ばれるルートは最も有名な脱出の成功例として歴史にその名を刻んでいます。

西側の若者たちが協力して145メートルの穴を掘り進め、たった2日間で57人の市民を無事に脱出させることに成功したのです。

10. 「壁のキツツキ」と呼ばれる人々がいた

1989年に壁の崩壊が始まると、ハンマーとタガネを手に集まり自らの手でコンクリートを叩き割る市民が数多く現れました。

彼らは「壁のキツツキ(Mauerspechte)」と呼ばれており、歴史の転換点に立ち会った記念品として破片を持ち帰ったり観光客に販売したりしていました。

11. ラスベガスの男性トイレに壁の破片がある

現在では壁の破片は世界中の博物館などに散らばっていますが、中でもラスベガスのカジノ施設には珍しい展示があります。

メイン・ストリート・ステーションの男性用トイレには本物の壁のブロックが飾られており、用を足しながら歴史に触れられます。

12. イーストサイドギャラリーは世界最長の野外ギャラリー

崩壊を免れて残存する壁の中で最も長い1.3キロの区間は、現在「イーストサイドギャラリー」として公開されています。

ここには世界中から集まった100人以上のアーティストの壁画が描かれており、平和と自由を象徴する人気の観光名所です。

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