安藤百福の雑学12選!48歳で財産を失った翌年の発明

チキンラーメンとカップヌードル。どちらもコンビニやスーパーで当たり前に手に取る商品ですが、それを生み出した安藤百福という人物については、意外と知られていないことが多く残っています。人生の後半で全財産を失ってから発明にたどりつき、90歳を超えても新しい挑戦を続けた生涯は、驚きの連続です。

天ぷらから生まれた技術、事件がきっかけの大ヒット、そして宇宙へ届いた麺。

そんな安藤百福にまつわる雑学を12個ご紹介します。研究にもとづく項目には出典を添えています。

発明にたどりつくまで

安藤百福がインスタントラーメンを世に出したのは、人生の折り返しをとうに過ぎてからでした。まずは、発明が生まれるまでの背景と、意外な着想の源をたどってみます。

1. 発明は48歳のときだった

世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」が発売されたのは1958年、安藤百福が48歳のときでした。その前年、安藤が理事長を務めていた信用組合が破綻し、手元に残ったのは大阪府池田市の借家だけだったと言われています。それでも安藤は、その借家の裏庭に小屋を建てて、たった一人で開発に取りかかりました。

のちに本人は、この発明にたどりつくために48年の歳月が必要だった、と語っています。遠回りに見えた過去の失敗が、すべて発明の材料になっていたわけです。

出典:日清食品グループ「安藤百福クロニクル」、nippon.com「安藤百福:世界の食文化を変えたミスターヌードル」(2018年)

2. 生まれは日本ではなかった

日本の国民食を生んだ人物ですが、安藤百福は日本統治時代の台湾で生まれ、出生時の名前は呉百福だったとされています。戦後はいったん中華民国籍となり、日本国籍を取得したのは1966年、56歳のころと伝えられています。

つまりチキンラーメンを発明した1958年の時点では、日本国籍ではなかったことになります。国境をまたいで生きた人だからこそ、箸や丼のない国でも食べられる麺という発想にたどりつけたのかもしれません。

3. ひらめきの元は天ぷら

麺を油で揚げて乾かす「瞬間油熱乾燥法」は、妻が台所で天ぷらを揚げる様子から生まれたと日清食品が公式に説明しています。熱い油に入れた衣が泡を立てながら水分をはじき出すのを見て、安藤は思わず声をあげたそうです。

この方法だと麺に無数の穴があき、湯を注ぐだけで元にもどるうえ、水分が抜けているので長く保存できます。よくある作り話に見えて、実は本人の証言として残っている話なのです。

※瞬間油熱乾燥法は1962年に製法特許として登録されています

出典:日清チキンラーメン公式サイト「About」

4. 鶏味を決めたのは息子

商品名がチキン味になったのは、息子のひと言がきっかけだったと言われています。庭で飼っていた鶏が調理中に暴れるのを見て以来、息子は鶏肉を口にしなくなったものの、鶏がらスープのラーメンだけは平気で食べたそうです。

安藤はその様子から、鶏のスープなら宗教上の制約も少なく世界中で受け入れられると考えたとされています。身近な家族の好き嫌いが、世界に広がる味の方向を決めたことになります。

5. 発売時はぜいたく品だった

チキンラーメンの発売時の価格は35円でした。うどん1玉が6円ほどだった時代ですから、およそ6倍という強気の値づけです。安さが売りの現在とは正反対で、当時はむしろぜいたく品あつかいでした。

そのため食品問屋はなかなか扱ってくれず、現金取引という条件もあって取引先探しは難航したと日清食品は記しています。それでも小売店からの注文が伸び、状況は少しずつ変わっていきました。

※発売日の8月25日は、のちに日清食品の「ラーメン記念日」になりました

出典:日清食品グループ NISSIN HISTORY「1958.8『チキンラーメン』発売」

カップ麺という次の一手

袋麺で成功したあとも、安藤の挑戦は止まりませんでした。ここからは、カップヌードルにこめられた工夫と、業界全体を動かした判断を見ていきます。

6. カップは麺にかぶせた

カップヌードルの発明の核心は、麺をカップに入れたことではなく、逆さにした麺にカップをかぶせたことにあります。この工夫で麺がカップの中ほどに宙づりになり、上下にすき間ができました。輸送中に麺が割れにくくなるうえ、湯を注ぐと上下から対流が起き、混ぜなくても3分ほどで自然にほぐれます。

日清食品は発売の半年前にこの構造の特許と実用新案を出願していました。発想の向きを変えただけで、いくつもの問題が同時に片づいたわけです。

出典:特許庁 広報誌「とっきょ」2018年12月・2019年1月号

7. ふたは機内食がお手本

カップヌードルのふたは、機内食で出されたマカダミアナッツの密封パックがヒントになったと言われています。アルミ箔と紙を貼り合わせた構造で、中身をしっかり守りながら手で簡単にはがせる点が求めていた条件と一致しました。

安藤は移動中も食べ物の包み方を観察していたそうで、そのときの現物は今も日清食品に保管されているとされています。天ぷらのときと同じく、日常の何気ない場面から答えを見つけています。

8. 転機になった事件中継

1971年に発売されたカップヌードルは、100円という価格が袋麺の3倍以上だったこともあり、当初は苦戦しました。流れが変わったのは1972年2月のあさま山荘事件です。

氷点下の現場で待機する機動隊員が湯気の立つカップヌードルを食べる姿がテレビで長時間中継され、これが転機になったとされています。狙って作れる宣伝ではなく、寒い場所でもすぐ温かい食事がとれるという価値が、そのまま画面に映った形でした。

9. 特許を他社に開放した

安藤は1964年に日本ラーメン工業協会を設立し、自社の製法特許を他社にも使えるよう開放しました。しかも開放に先立ち、先を越されそうだったライバルの特許出願を約2300万円とされる金額で買い取っています。

独占できる立場にありながら手放したのは、市場そのものを大きくしなければ産業として育たないと考えたからだと伝えられています。協会では製造年月日の表示など、品質を守る決まりづくりにも取り組みました。

※日本ラーメン工業協会は、現在の日本即席食品工業協会にあたります

晩年まで走り続けた人

安藤の挑戦は80代、90代になっても終わりませんでした。最後は、宇宙に届いた麺と、遠く海の向こうに残った名前の話です。

10. 95歳で麺を宇宙へ送る

2005年7月26日、宇宙食ラーメン「スペース・ラム」がスペースシャトルのディスカバリー号に積まれ、野口聡一飛行士が宇宙で口にしました。無重力でも飛び散らないようスープにとろみをつけ、麺は一口大の塊にして、船内で使える70度の湯でもどるよう設計されています。

この麺を乾かす方法は、安藤が1958年に生み出した瞬間油熱乾燥法でした。実現したとき安藤は95歳。48歳の発明が、半世紀近くかけて宇宙まで届いたことになります。

出典:日清食品グループ NISSIN HISTORY「2005.7 世界初の宇宙食ラーメン『スペース・ラム』宇宙へ」

11. 3日前までゴルフの日々

85歳のときの取材で安藤は、昼食の主食はラーメンで、ゴルフは週に2回まわると語っています。この習慣は晩年まで続いたようで、日清食品の記録によれば、亡くなる3日前の2007年1月2日にもゴルフを楽しんでいました。

前日の1月4日は仕事始めで30分ほど立ったまま訓辞を述べ、取引先との新年の会にも出席しています。翌5日の早朝に体調をくずし、96歳で亡くなりました。

最後まで現役だった人でした。

出典:日本食糧新聞「元気インタビュー 美健賢食 85歳の意気“健康”」、日清食品グループ NISSIN HISTORY「2007.1 巨星、墜つ」

12. 名前はニューヨークに

ニューヨーク発の人気レストラン「Momofuku」の店名は、安藤百福にちなんで名づけられたとされています。創業者のデイヴィッド・チャンが学生時代にインスタントラーメンに助けられた経験から、生みの親の名を店に掲げたと語られています。

百福という字が英語で幸運な桃と訳せる響きも気に入っているそうです。今ではこの店も独自の即席麺を売り出しており、安藤がまいた種は思わぬ形で一周してきました。

まとめ

安藤百福は、48歳で全財産に近いものを失ったあとに世界初のインスタントラーメンを生み出し、95歳で麺を宇宙まで送り出しました。

天ぷらや機内食のふたといった、誰でも見ている日常の風景から答えを引き出しているのが面白いところです。さらに、独占できたはずの特許を業界に開放した判断には、目先の利益より産業を育てることを選ぶ姿勢がはっきり出ています。

調べていて印象に残ったのは、有名な逸話ほど本人や会社の記録に裏づけが残っていること。次にお湯を注ぐときは、その3分の裏にある工夫を少しだけ思い出してみてください。

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