明智光秀といえば、「本能寺の変」を起こした裏切り者、という冷徹なイメージが強いかもしれません。
しかし、その素顔を覗いてみると、信長の理不尽な要求に胃を痛める苦労人だったり、戦場から妻に甘い手紙を送る愛妻家だったりと、意外なほど人間臭い一面が見えてきます。
教科書には決して載っていない、光秀の「トホホな失敗談」や「愛すべき素顔」を厳選し、あなたの光秀像がガラリと変わるエピソードを10選ご紹介します。
1. 信長に「キンカン頭」と罵倒され続けた

エリート武将としてのプライドが高い光秀にとって、主君信長からの容姿いじりは耐え難い屈辱であり、酒席で頭を叩かれ「キンカン頭」と嘲笑されるたびにストレスを溜め込みました。
この怨嗟の念が、謀反の火種として静かに積み重なっていったのです。
2. 妻が髪を売って宴会費用を工面した

浪人時代に連歌の会を催す金がなく困り果てていた時、妻の熙子が自慢の黒髪を切り落として売り、その金で酒肴を整え夫の面目を保ちました。
この献身的な逸話は、光秀が生涯側室を置かず、彼女一人を深く愛し続けた最大の理由として語り継がれています。
3. 40代までの記録が一切ない

歴史の表舞台に登場するのは信長に仕えてからであり、それ以前の約40年間については確実な史料がほとんど残っていません。
どこの誰に仕えていたのか、あるいは諸国を放浪していたのかさえ定かではない、戦国最大のミステリーの一つとされています。
4. 医学オタクで処方箋を配っていた

当時の武将としては珍しく医学の知識に精通しており、戦場では負傷した部下のために自ら傷薬の調合を行ったり、健康管理のアドバイスを記した書状を送ったりしました。
冷徹なイメージとは裏腹に、部下の身体を気遣うマメで世話好きな一面があったのです。
5. 飛んでいる鳥を撃ち落とす鉄砲の名手

若き日から鉄砲の扱いに長けており、揺れる船から飛ぶ鳥を百発百中で撃ち落としたという驚異的な腕前の持ち主でした。
その実力は信長に仕えるきっかけともなり、後の戦においても鉄砲隊を巧みに指揮する戦術家としての基盤になったと言われます。
6. 石垣に異常な愛情を注ぐ築城マニア

築城の名手としても知られ、特に琵琶湖畔に築いた坂本城には並々ならぬ情熱を注ぎ、石垣の配置や美しさに徹底的にこだわりました。
宣教師フロイスからも絶賛されるほどの豪壮華麗な城を完成させ、自身の美学と権威を世に知らしめることに成功したのです。
7. 神経質で規則が細かすぎた

軍規を定めるにあたり、「陣中の掃除を徹底せよ」「瓦礫は一箇所にまとめよ」といった細かすぎる指示を出し、違反者には厳罰を与えました。完璧主義者ゆえの神経質さで部下を管理し、その几帳面すぎる性格が、家中を常に緊張感で満たしていたようです。
8. 本能寺の変の直前、おみくじを何度も引き直した

愛宕山での連歌の会で、くじで凶が出たことに激しく動揺し、吉が出るまで何度も引き直したという逸話が残されています。
天下を覆す大謀反を前にして、極限の緊張状態と不安に苛まれ、神仏の加護にすがりつこうとした人間的な弱さが窺えます。
9. 戦場から妻にのろけの手紙を送っていた

過酷な戦の最中に妻へ送った手紙には、戦況よりも自身の無事を伝え、妻の健康を気遣う言葉が溢れていました。
冷徹な武将の仮面を脱ぎ捨てて、ただ一人の愛する女性に対して甘えや安らぎを求める、人間味あふれる愛妻家としての素顔が見えます。
10. 徳川家康の参謀「天海」になった説がある

山崎の戦いで農民に討たれたとされる光秀ですが、実は生き延び比叡山に入り、後に徳川家康の参謀の南光坊天海として幕府のフィクサーになったという説があります。
日光東照宮に残る明智家の家紋などの状況証拠と共に、今も根強く囁かれています。
更新日:2026年2月17日(火) 08:53

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