渋沢栄一に関する豆知識

渋沢栄一の意外な素顔

みなさん、こんにちは。新10000円札の顔として注目を集める渋沢栄一ですが、実は教科書には載っていない意外な一面がたくさんあります。

500社以上の企業設立に関わった実業家としての顔はもちろん、若き日の過激なエピソードや意外な素顔など、知れば知るほど魅力的な人物です。

今回は、思わず誰かに話したくなるような渋沢栄一の雑学を12個厳選してご紹介します。彼の新しい魅力を一緒に発見していきましょう。

1. 生涯で約500社の企業設立に関わった

現在も名前が残るみずほ銀行や東京ガスなどをはじめとして、多種多様な業界で約500社もの会社の設立や育成に深く携わりました。

日本の近代的な資本主義の確固たる基盤を作り上げたその功績から、現在でも彼は「日本資本主義の父」として高く評価され続けています。

2. 約600の社会公共事業や教育機関を支援した

企業の設立だけでなく、日本赤十字社など医療や福祉から教育に関わる約600もの事業にも持てる力を注ぎ全力で尽力し続けました。

利益を追求するだけでなく社会全体を豊かにすることを重んじた彼の姿勢は、現代の企業の社会的責任(CSR)の先駆けとしても知られています。

3. かつては過激な尊王攘夷派だった

実業家として非常に温厚で理知的なイメージがありますが、若い頃は倒幕を目指して高崎城の乗っ取りなどを計画する過激な青年でした。

横浜の外国人居留地の焼き討ちまで企てていたという事実は、彼が国家の行く末を真剣に憂いていた情熱的な人物であることを示します。

4. 徳川慶喜に仕え幕臣となった

焼き討ち計画を断念して追われる身となった彼は、不思議な縁から後の15代将軍となる一橋(徳川)慶喜に仕えることになり人生が変化します。

かつては倒幕を掲げていたにもかかわらず幕臣として重用された経験が、柔軟な思考と類まれな実務能力をさらに鍛え上げる契機でした。

5. 自らの財閥を作らなかった

他の有名な実業家たちとは大きく異なり、彼は特定の親族だけで莫大な利益を独占する「財閥」という形態を極端に嫌い避けて生きました。

社会全体から広く株式を集めて事業を展開する株式会社の仕組みを日本に定着させることにこだわり、富の平等な分配を目指したのです。

6. ノーベル平和賞の候補に2度選ばれた

経済活動だけでなく民間外交にも非常に熱心に取り組み、悪化していたアメリカとの関係改善などに生涯を通じて尽力し貢献しました。

平和を愛するその真摯な活動が国際的にも高く評価された結果、1926年と1927年の2度にわたりノーベル平和賞の候補となりました。

7. 日本で最初の銀行を設立した

現在のすべての銀行の確かなルーツとなる「第一国立銀行」を設立し、初代の頭取として金融の発展のために陣頭指揮を執り続けました。

産業を育てるには資金を円滑に供給する役割が必要だと考えた彼の素早い行動が、日本の近代的な金融制度の華々しい幕開けとなります。

8. 実家の家業で商才を磨いた

農家でありながら藍玉(あいだま)の製造販売や養蚕を手広く行う裕福な家庭に育ち、幼い頃から家業の手伝いをしながら商売の感覚を学びました。

10代の若さですでに単独での仕入れや販売を任されるほど優秀であり、この頃の実践的な経験が後の卓越したビジネスの基礎となります。

9. 論語と算盤の教えを広めた

道徳を表す「論語」と利益の追求を表す「算盤」は決して矛盾するものではなく、常に両立させなければならないという独自の思想を持ちました。

利益を独占することなく社会に還元するという道徳的な経済活動の重要性を、明治時代という早い段階から社会全体に向けて提唱しました。

10. 女性の教育や地位向上に尽力した

当時の日本社会ではまだ一般的ではなかった女性の高等教育の必要性を強く訴え、女性が社会で活躍できる基盤作りに励み続けました。

その揺るぎない信念のもとで日本女子大学校や東京女学館の設立において中心的な役割を果たし、多くの女性に学ぶ機会を提供しました。

11. パリ万博で西洋の文化に衝撃を受けた

20代の時に徳川昭武のお供としてパリ万博へ派遣され、ヨーロッパの進んだ近代産業や株式会社の素晴らしい仕組みを深く学びました。

その際に見聞きした西洋の豊かな社会体制に計り知れないほどの衝撃を受け、日本の近代化を推し進めるという強い決意を固めたのです。

12. 大蔵省の官僚時代に国の土台を作った

帰国後は新政府に才能を買われて大蔵省に入り、度量衡(どりょうこう)と呼ばれる長さや重さの単位の統一や新しい貨幣制度の導入を行いました。

国の形を整えるために郵便や鉄道など近代国家の基礎となるあらゆる制度作りに貢献し、日本の飛躍的な発展を力強く支え続けました。

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