千利休に関する豆知識
戦国時代から安土桃山時代にかけて、茶の湯を大成した茶聖こと千利休は、歴史の教科書にも必ず登場する有名な偉人ですが、実は身長が180センチメートル近い大柄な体格だったり、元々は裕福な魚問屋の跡取りだったりと、意外と知られていないエピソードがたくさんあります。
今回は、そんな千利休にまつわる驚きの雑学を11個集めました。
1. 身長が180センチメートル近くあった
戦国時代に生きていた成人男性の平均的な身長はおよそ157センチメートル程度でしたが、利休は規格外の大柄な体格でした。
現代に残されている着物の寸法や様々な文献資料などから具体的に推測すると、実際の身長は180センチメートル近くもあったそうです。
2. 元々は魚問屋の跡取りだった
利休の幼名は田中与四郎といい、現在の大阪府である和泉国の堺にある、屋号を「魚屋(ととや)」と呼ぶ大変裕福な魚問屋の跡取り息子でした。
非常に恵まれた環境で育った彼は若いうちから茶の湯の世界に親しみ、後に天下人となる秀吉の茶頭へと見事に上り詰めていくのです。
3. 利休は天皇から賜った名前
私たちがよく知る「利休」という居士号は、豊臣秀吉が正親町天皇に茶を献上する際、天皇陛下に直接拝謁するために与えられたものです。
それまでは千宗易(そうえき)と名乗って広く活動しておりましたが、この出来事をきっかけに宮中への出入りが正式に許される身分となりました。
4. 秀吉との朝顔のエピソード
庭に咲き誇る見事な朝顔の話を聞いた秀吉が茶会に訪れると、庭の朝顔は全て切り落とされていて秀吉は激怒して茶室に入りました。
しかし床の間にただ1輪だけ最高の朝顔が美しく生けられているのを見た秀吉は、その研ぎ澄まされた美意識に深く感服したそうです。
5. 茶室のにじり口を考案した
茶室に入るための非常に狭い入り口である「にじり口」は利休の斬新なアイデアであり、腰の刀を外して大きく身を屈めないと中に入れません。
どのような身分の人間であっても深く頭を下げて入室させることにより、茶室の中では皆が等しく平等であるという精神の表れです。
6. 黒を愛し、秀吉の好みと対立した
利休は黒こそが至高の色であると考え、一切の余計な無駄を削ぎ落とした「黒楽茶碗」などの地味で静寂な道具を好んで使用していました。
しかし天下人となった秀吉は華やかな赤色やきらびやかな黄金色を好むようになり、2人の間に美意識の深い溝が生まれていきます。
7. 黄金の茶室の設計にも関わった
静寂なわび茶を大成した利休ですが、実は秀吉が作らせたきらびやかな「黄金の茶室」の設計にも深く関わっていたとされています。
自身のストイックな美意識とは真逆のものであっても、主君の要望に合わせて完璧にプロデュースできる類稀な柔軟性を持っていました。
8. 利休七哲と呼ばれる優秀な弟子たちがいた
利休には大名茶人として非常に有名な7人の優れた高弟がおり、後世の人々から「利休七哲(りきゅうしちてつ)」と呼ばれて日本の茶道界を牽引しました。
キリシタン大名の高山右近や、後に独自の「ひょうげた」美意識を確立する古田織部などの、歴史に名を残す豪華な顔ぶれです。
9. 懐石料理の基礎を作った
濃茶を最大限に美味しく味わうために、お茶の前に提供される軽い食事である「茶懐石」の基本形式を確立させたのも利休の功績の1つです。
禅宗の修行僧が温かい石を懐に入れて飢えや寒さをしのいだという逸話に由来しており、1汁3菜を基本とする極めて質素なものでした。
10. 大徳寺の木像が切腹の引き金になった
利休が切腹を命じられた理由は諸説ありますが、京都の大徳寺山門に自身の木像を安置したことが大きな原因の1つとされます。
その門の下を天皇や秀吉に通らせたことが不敬にあたると激しく非難され、最終的に秀吉の逆鱗に触れて死罪となってしまいます。
11. 最後の茶会でもてなした相手は2人の弟子
秀吉の怒りを買って切腹を命じられて堺に蟄居する際、権力者の報復を恐れて誰も見送りに来ない孤独な状況に陥りました。
そのような危険な状況下でも、細川忠興と古田織部の2人だけが淀川を下る利休を見送りに訪れ、最後にお茶を交わしたとされます。