清少納言の雑学10選!兄殺害の現場で命拾いした説話
「枕草子」の作者として知られる清少納言。
鋭い観察眼とウィットに富んだ筆で、平安時代の宮廷の日常を生き生きと描き出した才女です。
主君である定子に仕え、その豊かな才気で周囲を驚かせた一方、本名や晩年の暮らしぶりには今も多くの謎が残されています。
ライバルとされる紫式部との関係や、機転の利いた数々の逸話も見どころです。そんな清少納言にまつわる雑学を10個ご紹介します。
1. 本名も由来も不明の名
「清少納言」は本名ではなく、宮仕えをする女性が使った女房名と呼ばれる呼び名です。
「清」は生家である清原氏に由来し、「少納言」は身近な親族の官職にちなむとされますが、その役職に就いた該当者が見当たらず、本名もはっきりとは分かっていない謎めいた名前です。
2. 親子三代で百人一首
清少納言の曾祖父である清原深養父、父の清原元輔、そして本人の三代がそろって、代表的な和歌集である百人一首に歌を選ばれています。
深養父が36番、元輔が42番、清少納言が62番と三世代が名を連ねており、代々和歌にすぐれた名門の家に生まれ育ったことがうかがえます。
3. 紫式部からの辛い評価
ライバルとして知られる紫式部は、自らの日記の中で清少納言のことを「したり顔でとんでもない人」と書き記しています。
「得意げに漢字を書き散らしているが、よく見れば足りない点が多い」とまで述べており、その豊かな才気をかなり手厳しく批評していたと伝わります。
4. 御簾を上げた名場面
主君である定子に「香炉峰の雪はどうか」と問いかけられた清少納言は、何も言葉を発することなく御簾を巻き上げて見せました。
中国の詩人・白居易が詠んだ「香炉峰の雪は簾を撥げて看る」という漢詩を踏まえた、たいへんに機転の利いた振る舞いだったと伝わっています。
5. 元夫と兄妹のように
元夫である橘則光とは、離婚した後も宮中で互いを「兄」「妹」と呼び合うような、さっぱりとした間柄だったと伝わります。
則光は武勇にすぐれた人物でしたが和歌はとても苦手で、返答に困ると海藻を口いっぱいに頬張って、その場をごまかしたという逸話も残されています。
6. 枕草子に隠された想い
枕草子は定子を中心とした華やかな宮廷生活ばかりを生き生きと描き、定子の一族である中関白家の没落や、定子自身の不遇についてはほとんど触れていません。
そのため、枕草子は亡き主君である定子に捧げた鎮魂の書ではないか、とする見方が現在では有力になっています。
7. スパイ疑惑で里下がり
清少納言は、時の権力者である道長の側に内通するスパイではないかと疑われ、周りの同僚たちから距離を置かれて、約1年ほど里に下がっていた時期がありました。
清少納言の代表作である枕草子の執筆は、ちょうどこの頃から本格的に始まったのではないかとみられています。
8. 落ちぶれ伝説は創作か
晩年に落ちぶれて尼になってしまったという伝説は、鎌倉時代の説話をもとにして生まれた、後世の創作ではないかと指摘されています。
実際には息子の橘則長は受領と呼ばれる地方長官になり、娘もまた宮中に仕えていたと伝わっており、寂しい晩年像とは食い違っています。
9. 兄殺しの現場で命拾い
兄である清原致信が屋敷を襲撃されて殺害された事件の現場に、清少納言もたまたま居合わせたという説話が残されています。
そのとき僧のような姿をしていたため危うく巻き添えにされかけましたが、裾をまくって女性であることを示し、命拾いをしたと古事談に伝わります。
10. 機転で返した百人一首
百人一首でも知られる「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも」は、藤原行成のとっさの言い訳への切り返しとして詠まれた歌です。
「鶏が鳴いたので急いで帰った」と言う行成に対し、中国の函谷関にまつわる故事を踏まえ、その場で当意即妙に言い返したものだと伝わります。