松永久秀の雑学12選!爆死は後世の作り話だった
主家を乗っ取り、将軍を殺し、大仏殿を焼き、最後は茶釜を抱えて爆死した男。
松永久秀はそんな悪名で知られます。
ただし近年の研究では、その多くが後の世の作り話だと分かっています。
そんな松永久秀にまつわる雑学を12個ご紹介します。
平蜘蛛と爆死伝説の真相
まずは久秀といえばこれ、という有名な最期の場面から見ていきます。
二つの名物茶器が、この武将の生涯を思わぬかたちで貫いています。
1. 茶釜と爆死した話は後世の創作
松永久秀といえば、名物の茶釜「平蜘蛛」を抱いて爆死した武将として知られています。
ただし、当時に近い記録にそうした場面は見当たりません。
『信長公記』などは焼死と記し、『多聞院日記』や『兼見卿記』は切腹と伝えています。
江戸時代初期の『川角太閤記』には、鉄砲の火薬で茶釜と自分の首を打ち壊すという言葉が出てきますが、これも本人が吹き飛ぶ話ではありません。
火薬もろとも爆散するという描写は、比較的新しい時代に広まったものとされています。
2. 平蜘蛛だけは渡さなかった
久秀は織田信長に従ったとき、名物の茶入れ「九十九髪茄子」をあっさり差し出しています。
ところが平蜘蛛だけは、何度所望されても手放しませんでした。
茶釜の名は、蜘蛛が地面に這いつくばったような平たい形から付いたとされます。
天下人が欲しがるものを、家来の立場で断り続けたわけです。
爆死の伝説がこれほど広まった背景には、この頑固さが人々の想像をかき立てたという面もありそうです。
3. 二度焼けても残った茶入れ
一方、信長に献上された九十九髪茄子は、そのあと数奇な道をたどります。
『山上宗二記』によれば、村田珠光が90貫、朝倉宗滴が500貫、越前府中の小袖屋が1000貫で手にしたと伝わる名品でした。
久秀は策をめぐらせて入手したとされ、永禄11年10月に信長へ贈っています。
この茶入れは本能寺の変と大坂城の落城で二度も焼けましたが、そのつど漆で継ぎ直され、今も東京の静嘉堂文庫美術館に伝わっています。
※「貫」は当時使われた銭の単位です
4. 裏切っても許された理由
久秀は信長を二度も裏切っています。
一度目は元亀年間の離反で、このときは和睦して許されました。
二度目は天正5年、本願寺攻めの陣を離れて信貴山城に立てこもります。
信長は人質を処刑させる一方で、平蜘蛛と引き換えに命を助けようと考えていた形跡があるのです。
名物の茶釜への執着が、異例の寛大さにつながったのかもしれません。
三悪と呼ばれた悪名の中身
久秀の悪名は「三悪」という言葉にまとめられてきました。
その中身を一つずつ確かめると、輪郭がずいぶん変わってきます。
5. 三悪の出どころは江戸の本
久秀の悪名は「三悪」という言葉に集約されています。
主家の乗っ取り、将軍殺害、東大寺大仏殿の焼き討ちの三つで、これを信長が徳川家康に語ったという話が広く知られます。
ただしその出典は、江戸時代中期の逸話集『常山紀談』です。
同じ時代を生きた宣教師ルイス・フロイスは、久秀を博識で辣腕だが狡猾だと評しました。
曲者であったことは確かでしょうが、三悪という決まり文句そのものは、後の時代の産物とされています。
6. 将軍殺害の日、久秀は大和
永禄8年、将軍の足利義輝が京都で襲われて命を落とします。
久秀はこの事件の首謀者として語られてきました。
ところが当日、久秀は大和国、いまの奈良県におり、現場にはいなかったと考えられています。
実行の中心にいたのは三好義継と、久秀の子である久通だったとみられます。
とはいえ久秀が事件に強く反発した形跡もなく、無関係だったとまでは言い切れないのが実情です。
7. 大仏殿の火は失火だった説
永禄10年、東大寺の大仏殿が焼け落ちました。
久秀が焼き討ちしたと語られてきた事件です。
しかし同時代の記録『多聞院日記』は、久秀軍の兵火の残り火が広がった失火として書いています。
フロイスの記録のほうは、三好方のキリシタンによる放火だと伝えます。
証言が食い違っており、久秀が狙って大仏殿を焼いたと断定できる材料はそろっていません。
近年はこの点に慎重な見方が増えています。
8. 10年後の同じ月日に果てる
大仏殿が焼けたのは永禄10年10月10日でした。
そして久秀が信貴山城で自害したのが、天正5年10月10日。
ちょうど10年後の、同じ月日にあたります。
当時の兵たちは春日の神の罰だと噂したと伝わります。
むしろこの符合があったからこそ、大仏を焼いた罰当たりだという物語が、後の世で強く語り継がれたという指摘もあります。
素性と奈良に残した足跡
では、悪名を取り払うと何が残るのでしょうか。
久秀の出自と、奈良の地に刻まれたものをたどります。
9. 信長より26歳ほど年上だった
久秀の生年は永正5年、西暦でいえば1508年とするのが通説です。
根拠は『多聞院日記』にある「当年六十一歳」という記述からの逆算で、亡くなったのは天正5年、数えで68歳でした。
1534年生まれの信長より、およそ26歳も年上だったことになります。
裏切りを重ねた老将というと不敵な印象ですが、実際は還暦を過ぎてから信長に仕え、70歳近くで戦場に立った人でもありました。
10. 霜台と名乗った出世頭
久秀の出身地ははっきりしていません。
阿波国の説は史料の裏づけを欠くとされ、山城国西岡の説もありますが、近年は摂津国東五百住、いまの大阪府高槻市の土豪出身とする見方が最も有力です。
三好長慶のもとで文書を扱う右筆から身を起こしたとされます。
永禄4年には従四位下に昇り、それまでの藤原姓に代えて源氏を名乗るようになりました。
土豪の出とされる人物としては、異例の出世ぶりでした。
※「右筆(ゆうひつ)」は文書の作成を担う書記役です
※「霜台(そうだい)」は久秀が任じられた弾正忠の唐名です
11. 多聞櫓の名を生んだ城
久秀が奈良に築いた多聞山城は、永禄2年に工事が始まり、永禄7年に完成しました。
石垣の上に長屋のような櫓を連ねた造りで、これが城郭建築でいう多聞櫓の始まりだという説がよく知られています。
ただし由来には諸説あり、多聞天を祀ったことによるとする説などもあります。
4階建ての高い櫓は天守の先駆けとも言われますが、異論もあります。
城は天正5年に壊され、寿命はわずか16年ほどでした。
12. 大仏が戻るまでの長い年月
焼けた大仏は、すぐには元に戻りませんでした。
頭部は銅板で仮に繕われ、雨ざらしのまま長い年月が過ぎます。
大仏殿は仮の堂で復興していましたが、それも慶長15年に大風で倒れてしまいました。
ようやく公慶上人の勧進によって元禄4年に大仏が完成し、翌年に開眼供養が行われます。
大仏殿の落慶は宝永6年、1709年のことでした。
焼失からおよそ140年が経っていた計算になります。
まとめ
爆死の場面は当時に近い記録には見当たらず、三悪という言葉の出典も江戸時代の逸話集でした。
将軍が殺された日には、本人は大和にいたと考えられています。
編集していて面白かったのは、悪名そのものが後の世で少しずつ育てられていった点です。
あなたの知る歴史上の悪人も、案外そうなのかもしれません。