北政所ねねの雑学12選!秀吉の手紙に便秘の相談
豊臣秀吉の正室として知られるねね。
夫を支えた良妻賢母のイメージが強い一方で、その素顔は意外なほど生々しく、そして謎めいています。
名前の読み方すら今も定まらず、信長からは手紙で励まされ、隠居後には大名に並ぶ所領を与えられました。秀吉の死後も、豊臣家の滅亡を見届けるまで生き抜いた人でもあります。
淀殿との関係も、近年の研究では長く語られてきた対立とは違う姿が見えてきています。そんなねねにまつわる雑学を12個ご紹介します。
1. 名前の読み方は今も未確定
桑田忠親は自筆署名の「ね」1字から本名は「ね」と唱えましたが、角田文衞は鎌倉から江戸の女性名に「ね」の一字名は1人もなく「ねね」は多いと反論しました。
大河ドラマも『太閤記』はねね、『秀吉』はおね、『真田丸』はねい、『どうする家康』はねねと揺れます。
※1588年の位記に記された名は「豊臣吉子」で、夫・秀吉の名を受けたものです。
2. はげねずみの手紙は代筆
信長がねねに送った「はげねずみの手紙」は昭和初期まで直筆と信じられましたが、桑田忠親の研究で右筆・楠長諳の筆と判明しました。
二度とあなたほどの女性は見つけられないと、悩む妻を励ます私信なのに、公式文書用の「天下布武」の朱印が押された異例の一通です。
※右筆は「ゆうひつ」と読み、主君に代わって文書を書く役目の人を指します。この書状は展覧会で公開されたこともあります。
3. 反対を押し切った質素な祝言
1561年8月、通説では14歳のときに秀吉と結ばれましたが、父・杉原定利をはじめ周囲の反対を押し切っての結婚だったと伝わります。
祝言は藁と薄縁を敷いただけの簡素なもので、実母の朝日はこれを正式な婚礼ではない野合とみなし、生涯認めなかったとも言われます。
※薄縁は「うすべり」と読み、へりを付けた薄い敷物のことです。生年は1542年説、1548年説、1549年説と分かれています。
4. 本能寺の変で城を離れ寺へ
遠征で城を空けがちな秀吉に代わり、ねねは長浜城で城主代行のような立場にあったと考えられています。
本能寺の変ののち、明智方についた阿閉氏が攻め寄せてきたため、姑である大政所のなかとともに城を退去し、伊吹山の麓にある大吉寺へ身を寄せたと伝わります。
※大政所のなかは秀吉の母で、ねねにとっては姑にあたります。大吉寺は現在の滋賀県長浜市にある寺院です。
5. 通行に求められた北政所の黒印状
文禄・慶長の役で秀吉が前線への補給を円滑にしようと交通を整えた際、通行には行き先に応じた証文が必要とされました。
名護屋から大坂や京へは秀吉の朱印状、京から名護屋へは秀次の朱印状、大坂から名護屋へは北政所ねねの黒印状が求められたと言われます。
※黒印状は黒い印を押した文書で、朱印状に次ぐ格式のものとされます。名護屋は現在の佐賀県唐津市に築かれた拠点です。
6. 隠居後の所領は上皇を上回る
1592年には1万1石7斗の所領を得ており、1604年には家康から養老料に1万6,346石余を安堵され、元和年間には1万6,923石余に増えました。
1629年に譲位した後水尾上皇へ幕府が用意した御料地は当初3,000石で、上皇の当初の御料地を上回る規模だったことになります。
※石は米の収穫量を表す単位で、領地の規模を示すのに使われました。後水尾上皇の御料地はのちに1万石へ加増されています。
7. 手紙で妻の腹具合を気づかう
10月24日付でねねに宛てた秀吉の書状には、「大便」という言葉が3度、下痢を意味する「下くだし」が2度も出てきます。
年次は特定されていませんが、天下を取った人物が妻の腹の具合を手紙で細かく気にかけていた様子がうかがえて、なんとも人間くさい一通です。
8. 宣教師は彼女を女王と記した
ルイス・フロイスは『日本史』のなかでねねを王妃あるいは女王と表現し、関白殿下の妻は大変な人格者で頼めば解決できないことはないと記しました。
ただしその呼び方は違和感が強く、松田毅一と川崎桃太の完訳では「羽柴夫人」「関白夫人」と訳し直されています。
※フロイスは彼女を異教徒と記しており、ねね自身がキリスト教に改宗した記録はありません。
9. 淀殿とは連携していたとする説
近年の田端泰子や跡部信の研究では、高台院は秀吉の仏事に専念し、淀殿は秀頼の後見にあたる形で後家の役割を分け合い、協調していたのではないかとされています。
1608年には天然痘にかかった秀頼の容態を医師の曲直瀬道三へ問い合わせた自筆の手紙も残ります。
※対立説がなくなったわけではありません。関ヶ原の戦いでどちらに付いたのかも、東軍説と西軍説があり決着していません。
10. 甥の足止めが返り咲きを生む
大坂の陣では、高台院を大坂へ行かせてはならないとの幕府の意向で、関ヶ原で西軍に属して改易され、浪人だった甥の木下利房が、護衛と監視を兼ねて付けられました。
1615年に豊臣家が滅びると、利房は高台院を足止めした功績とされて備中足守藩主に返り咲きます。
※改易は大名などから領地や身分を取り上げる処分のことです。この経緯は『寛政重修諸家譜』に見えます。
11. 家康に耄碌したかと記される
兄・木下家定の遺領相続で家康は利房と勝俊への分割を意図しましたが、高台院は勝俊の単独相続を願い出たため所領は没収され、『当代記』は「近年、政所老気違」、『慶長年録』は「政所老耄か気違」と記しました。
一方で秀忠とは終生親しかったとも伝わります。
※耄碌は「もうろく」と読み、年をとって心身が衰えることを指します。願い出は浅野長政を通じて秀忠に届けられ、人質時代の秀忠には髪の結いようや装束の着方まで教え、秀忠は上洛のたびに訪ねたとも伝わります。
12. 遺骨は自らの木像の下に眠る
1606年、秀吉と実母の菩提を弔うため、家康の後援も受けて京都東山に高台寺を建てました。
高台寺蒔絵と呼ばれる装飾で知られる霊屋の厨子には、中央に大随求菩薩、右に秀吉の坐像、左にねねの木像が置かれ、その木像のおよそ2m下に葬られているといわれます。
※霊屋は「おたまや」と読み、故人をまつる建物のことです。ねねは1624年、豊臣家の滅亡から9年後に亡くなりました。享年76とされ、77説や83説もあります。