競輪の雑学12選!KEIRINは柔道に次ぐ五輪種目
バンクを駆け抜ける自転車が、風を切って一団になだれ込む競輪。速さだけを競っているように見えて、その中身は仲間と組むラインの駆け引きや、ミリ単位で決められた自転車の規格、そして戦後の産業を立て直すために生まれたという成り立ちに支えられています。
しくみを知ってから眺めると、同じ一周がずいぶん違って見えてくるはずです。
そんな競輪にまつわる雑学を12個ご紹介します。公式資料にもとづく項目には出典を添えています。
レース中に潜むルールたち
まずは、レースを見るときに知っておきたい決まりごとから見ていきます。ルールを一つ知るだけで、同じ映像がまるで違う駆け引きに見えてきます。
1. 味方は同じ地区の選手
競輪では、登録地が近い選手同士が組んで走ることがあり、これをラインと呼びます。あらかじめ決まったチームではなく、その場で組まれる即席の集団です。
先行の選手が風を受け止め、その後ろにつく番手の選手は空気抵抗の少ない位置から力を温存して追い込みます。番手は相手をブロックしたり、車間を調整したりと、やることの多い役回りです。
終盤まではライン対ラインの戦いが続きますが、最後は個人対個人の勝負に変わります。戦法は先行、捲り、追込みに大きく分かれます。
出典:KEIRIN.JP「ラインを読む」
2. 途中で消える先導役
レースの序盤から中盤にかけては、先頭誘導員と呼ばれる専任の選手が隊列の先頭を走り、風よけとなってペースを作ります。この誘導員は途中で走路から退避する決まりで、抜けるタイミングはバンク1周の長さによって変わります。
333mと335mのバンクでは最終周回の2周前にホームストレッチラインを、400mと500mでは同じく2周前にバックストレッチラインを通過したときです。誘導中の先頭誘導員の後輪より前に出たり並びかけたりすると、瞬間的なものを除いて失格になります。
※「バンク」は競輪場の走路のことで、コーナーには傾斜がついています
出典:JKA「競輪のルール」(抜粋版RULE BOOK)
3. ギアの上限が決まった理由
競輪では、男子が使えるギア倍数に上限が設けられています。2014年12月31日を初日とする開催から、それまでの4.58から4.00未満へ規制され、実際に使える最大は3.93という値になりました。
背景にあったのは大ギア化の進行です。大きなギアで落車すると怪我が重くなりやすく、また重いギアを踏むために選手の体格が大型化し、スピード差に対応しづらくなって落車が増えていました。
安全を優先した見直しといえます。
※「ギア倍数」は、ペダルを1回転させたときに後輪が何回転するかを表す比です
出典:KEIRIN.JP「月刊競輪WEB」(2015年)
4. 市販車では走れない
競輪で使う自転車は競走車と呼ばれ、店で売られている市販車をそのまま持ち込むことはできません。JKAに登録された製造業者が作ったものだけが認められています。
フレームの材質は、炭素鋼か合金鋼といったスチールか、もしくはカーボンに限られ、タイヤの外径は675mmと決められています。ハンドルバーの端は、にぎりかバーテープで覆うことも定められています。
安全のために、細部までミリ単位で基準が引かれているわけです。
出典:JKA「競走車安全基準」(令和3年最終改正)
選手とバンクの舞台裏
続いては、走る場所と、そこに立つ選手たちの話です。競走が始まる前から、競輪ならではの決まりごとが動いています。
5. 5種類ある走路の長さ
競輪場のバンクは1周の長さが5種類あり、250m、333m、335m、400m、500mに分かれています。もっとも多いのが400mで、500mは宇都宮、大宮、高知の3場です。
333mは松戸、小田原、伊東温泉、富山、奈良、防府にあります。そのなかで前橋だけが国内で唯一の335mです。
内側の退避スペースを広げた結果、走路が外側へ持ち上がったためとされています。前橋はコーナーの傾斜であるカントが約36度と最も急で、1990年には日本初の全天候型屋内バンクになったとされています。
6. 前日から外と切り離される
競輪の選手は、開催前日の前検日から競輪場の宿舎に入ります。携帯電話やパソコンなど外部と連絡できる機器は、施設内に持ち込んだ時点で提出し、帰郷まで預けたままです。
面会や外出、外部との連絡は、係員が特別に許可した場合を除いて認められていません。電話も緊急でやむを得ない場合に限られ、そのときは係員が立ち会います。
八百長を防ぎ、公正なレースを保つための決まりです。
※「前検日(ぜんけんび)」は、開催の前日に選手や自転車の検査を行う日です
出典:JKA「競輪の選手管理の要領」(平成25年最終改正)
7. 世界を10年制した男
中野浩一選手は、1977年にベネズエラのサンクリストバルで開かれた世界選手権のプロスプリントで、日本人として初めて優勝しました。しかもその後も勝ち続け、1986年のコロラドスプリングズ大会まで10連覇を果たしています。
国内でも大きな記録を残していて、1980年には25歳で、日本のプロスポーツ選手として初めて年間の賞金総額1億円を突破しました。競輪の名前を世界へ広げた存在です。
出典:ブリタニカ国際大百科事典「中野浩一」
法律から生まれた競技
最後は、競輪がどのように生まれ、どう歩んできたかをたどります。この競技は、一本の法律から始まりました。
8. 産業復興のための法律
競輪は、自転車競技法という法律にもとづいて行われています。1948年4月13日、林大作衆議院議員ら48名が自転車競技法案を提出した議員立法で、同年8月1日に法律第209号として公布されました。
目的は、戦争で壊滅した自転車産業の振興です。売上から生まれる収益で、生産や輸出を支えようという考えでした。
1945年の自転車生産は約1万8千台まで落ち込んでおり、立て直しは急ぐべき課題だったのです。
出典:参議院「経済のプリズム」第242号(2025年)
9. 名前は競馬をまねた通称
日本で最初の競輪は、1948年11月20日に小倉で開かれました。入場者は約5万5千人、売上は1973万円と記録されています。競輪場はその後急増し、1948年の2場から1953年3月には63場でピークを迎え、2024年時点では43場です。
ちなみに競輪という呼び名は、競馬になぞらえて使われるようになった通称で、法律の名前は自転車競技法、条文で使われる言葉は自転車競走です。2023年にはJKAが11月20日を競輪発祥の日として記念日に登録しました。
出典:参議院「経済のプリズム」第242号(2025年)、日本大百科全書「競輪」
10. 存続が揺らいだ一日
1950年9月9日、鳴尾競輪場で本命の選手の自転車のクランクピンが外れ、着外に終わりました。審判団がその選手に出場停止処分を決めると、観客が激高して走路に入り込み、投石や放火が起こります。
警察官の威嚇射撃が観客に当たり、1人が亡くなりました。9月22日には全国の競輪場が閉鎖され、吉田茂首相は一時廃止に賛成の意向を示しましたが、通商産業大臣の説得で存続が決まり、11月15日に再開されています。
※当初は「きょうりん」とも読まれ、事件後の批判を受けて「けいりん」に統一されたという説もありますが、確かな資料は見当たりません
出典:参議院「経済のプリズム」第242号(2025年)
11. 車券の8割はネットから
2022年度の車券の売上は1兆908億円でした。このうちインターネットと電話による投票が8551億円を占め、全体の8割近くにのぼります。一方で競輪場そのもの、いわゆる本場での売上は148億円と、2%に届きません。
売上は1991年度に2兆円近くまで伸びたあと、2013年度には約6000億円まで落ち込みましたが、その後は回復しています。深夜に無観客で行うミッドナイト競輪が、20代から30代を取り込んだことが大きいとされています。
※ミッドナイト競輪は、2011年に小倉で初めて開催されました
出典:参議院「経済のプリズム」第231号(2023年)
12. 五輪で戦う日本生まれ
競輪は1981年に世界選手権自転車競技大会の正式種目となり、2000年のシドニー五輪で五輪の正式種目に加わりました。柔道に次ぐ、日本生まれの五輪種目です。競技名もKEIRINとそのまま使われています。
ただし五輪版は日本の競輪と中身が違い、ラインを組まない完全な個人戦です。先導するのも人ではなく、電動アシスト付き自転車が務めます。
女子は2012年のロンドン大会から実施されています。
出典:JKA「競輪の沿革」、KEIRIN.JP「オリンピックと『ケイリン』」
まとめ
競輪は、同じ地区の選手が即席で組むラインの駆け引きと、ミリ単位で定められた競走車の基準に支えられた競技です。前検日から外部との連絡を断つ選手管理や、ギア倍数の上限も、公正さと安全を守るために積み重ねられてきました。
そしてこの競技は、戦後に自転車産業を立て直すための法律から生まれ、鳴尾事件で存続が揺らぎながらも今日まで続いています。売上の8割がネット経由という今の姿は、時代に合わせて形を変えてきた結果なのかもしれません。
次にレースを見るときは、風を受けて走る先行の選手にも目を向けてみてください。