歌舞伎の雑学11選!創始者は男装した女性だった
歌舞伎と聞くと、少し敷居の高い伝統芸能というイメージを持つ方が多いかもしれません。
ですがその始まりは400年ほど前、京の街で人々を驚かせた最先端の流行でした。
常識外れの装いや踊りに、当時の人たちは大いに沸きました。
華やかな衣装や独特の化粧、大がかりな舞台の仕掛けだけでなく、幕の内弁当や二枚目といった言葉まで、歌舞伎から生まれて今の暮らしのなかに残っています。
そんな歌舞伎にまつわる雑学を11個ご紹介します。
1. 阿国は男装して踊った
歌舞伎の始まりとされる出雲阿国は、自ら男装して当時流行の伊達な無頼の若者に扮し、女装した男が演じる茶屋の女のもとへ通う様子を踊ってみせたと伝えられます。
今の歌舞伎は男性だけが演じる世界ですから、400年ほどの間に男女がすっかり入れ替わったことになります。
2. 語源は傾くという言葉
歌舞伎という名は、常識から外れる様子を表す「傾く」という言葉の連用形が語源とされています。
異様な身なりで世をすねた無頼の若者たちの風俗をそのまま舞台に持ち込んだもので、古典というお堅いイメージの強い歌舞伎も、生まれた当初は最先端の流行だったのです。
3. 再開の条件は前髪剃り
1629年に女歌舞伎が禁止されたあと人気を集めた、美少年中心の若衆歌舞伎も1652年に禁止されました。
翌年になって再開が許された条件は、前髪を剃り落として野郎頭になることと、筋のある物真似狂言を演じることの2つで、幕府は色気の源だった前髪を落とさせたのです。
4. 廻り舞台は日本が先行
舞台が丸ごと回転する廻り舞台は、1758年に大坂の並木正三が本格的に実用化したと伝えられます。
ヨーロッパで初めて採用されたのは1896年のミュンヘンですから、日本のほうがおよそ140年ほど早く、電力を使うようになるまでは舞台下の奈落で人が押して回していました。
※「奈落(ならく)」は舞台の下に設けられた地下の空間です。
5. 幕の内弁当の名の由来
幕の内弁当という名は、歌舞伎の幕と幕の間に食べる弁当に由来するという説が有力です。
江戸の芝居は朝6時に開演して夕方5時に終わる丸一日の興行で、弁当は1人分およそ100文、中身は焼いた握り飯10個に焼き卵や蒲鉾、こんにゃく、焼き豆腐、干瓢という記録が残ります。
※「干瓢(かんぴょう)」は夕顔の実を細長くむいて干した食品です。
6. 二枚目と三枚目は看板順
色男を指す二枚目、笑いを担う三枚目という言葉は、江戸時代の芝居小屋に掲げられた役者の看板の並び順が語源だとされています。
もともとは6枚の看板で、のちに8枚、11枚と増えていきましたが、二枚目の位置が色男役、三枚目の位置が道化役と決まっていたそうです。
7. 十八番の半分は中身不明
得意技を意味する十八番という言葉は、1832年に7代目市川團十郎が、市川家に伝わる当たり芸18種を選んだ歌舞伎十八番が語源とされています。
ところが選ばれた時点で、18のうち10本ほどはすでに上演の記録が乏しく、内容がよくわからなくなっていたと言われています。
8. 成田屋は子授け祈願から
掛け声でおなじみの屋号「成田屋」は、子どもに恵まれなかった初代市川團十郎が、千葉の成田山新勝寺に祈願して2代目を授かったことに由来します。
1695年に不動明王を演じると舞台に次々と賽銭が投げ込まれ、成田山は江戸でも指折りの参拝地になったと伝えられます。
9. 押隈という顔のブロマイド
舞台を終えた役者が自分の顔の隈取を布や紙に押し当てて写し取ったものは押隈と呼ばれ、ひいきのファンへの記念品として配られました。
現存する最古のものは1849年の8代目市川團十郎のものとされ、いわば役者の顔そのものを写し取った特別なブロマイドといえます。
※「隈取(くまどり)」は顔に描く歌舞伎独特の化粧、「押隈(おしぐま)」はそれを写し取ったものです。
10. 幕府が看板役者を追放
1842年、7代目市川團十郎は舞台で本物の甲冑を使うなど、贅沢を禁じる幕府の命令に触れたとして江戸十里四方処払いを言い渡され、江戸から追放されてしまいました。
同じころ江戸三座と呼ばれた芝居小屋も、浅草のはずれにある猿若町へ強制的に移転させられています。
※「江戸十里四方処払い」は、日本橋からおよそ40キロの範囲に立ち入ることを禁じた刑罰です。
11. 米国では茶番の代名詞
アメリカの政治の世界では、kabuki danceという言い方が、結論がすでに決まっているのに対立を演じてみせる出来レースや茶番を指す言葉として使われています。
日本の歌舞伎の実態とはほとんど関係のない使われ方で、誤用ではないかという批判の声も出ているようです。