伊能忠敬の雑学12選!測量費の大半は自腹だった

伊能忠敬は、江戸時代に日本全国を歩いて『大日本沿海輿地全図』を作り上げた人物として知られています。

50歳を過ぎてから天文学を学び直し、55歳で最初の測量に出発したという経歴だけでも異例ですが、そもそも忠敬が測りたかったのは日本の形ではなく地球の大きさでした。

費用の多くは自分の財布から出ており、腰に差していた刀は竹だったとも伝わります。

そんな伊能忠敬にまつわる雑学を12個ご紹介します。

1. 測量の目的は地図ではない

忠敬が測量を始めたのは正確な暦を作るためで、そのためには地球の大きさ、つまり緯度1度の長さが必要でした。

深川黒江町の自宅と浅草の暦局の緯度差から地球1周を約35,200kmと計算しましたが、師の高橋至時に距離が近すぎて正確な値は出ないと退けられています。

※「暦局(れききょく)」は幕府が暦を作るために置いた天文台にあたる役所です。

2. 辞令に記された測量試み

寛政12年に出た正式な辞令に記された名目は測量ではなく測量試みで、元は百姓で浪人という身分だった55歳の忠敬への手当は1日銀7匁5分でした。

当時はロシアへの警戒から幕府が蝦夷地の地図を求めており、至時はその地図作りを名目に願い出て許可を得たとされています。

※「匁(もんめ)」は銀の重さを表す単位で、銀7匁5分は1日分の手当にあたります。

3. 費用の大半は自分持ち

第1次測量で幕府から支給されたのは180日分で22両2分、忠敬は100両を懐に出発しましたが、帰宅したとき手元に残っていたのは1分だけでした。

差額の70両以上に加えて測量器具代の70両も自身で負担しており、後世の試算ではこの自腹分は約1,200万円ほどとされています。

※「両(りょう)」と「分(ぶ)」は江戸時代の金貨の単位で、1両は4分にあたります。

4. 隠居した貧しい老人ではない

忠敬は貧しい隠居ではなく、当主を務めた29歳から49歳までの20年間で伊能家の収入をおよそ3倍に伸ばした経営者でもありました。

『金鏡類録』には家産3万両という村人たちの噂が書き留められており、現在の価値にすると30億円から45億円ほどという試算もあります。

※『金鏡類録』は「きんきょうるいろく」と読み、佐原の様子を書き残した記録です。

5. 歩数を数えて歩いたのか

4万kmを歩数で測ったという話は正確ではなく、歩測を用いたのは第1次測量だけで、第2次からは間縄、第3次以降は鉄鎖も使って測っています。

忠敬も日記に第1次は真正な図とは言い難いと記し、有名な歩幅69cmも逆算値で、本人が書き残した史料は見つかっていません。

※「間縄(けんなわ)」は距離を測るために目盛りをつけた縄です。

※「鉄鎖(てっさ)」は鉄で作られた鎖状の物差しで、縄より伸び縮みしにくい道具です。

6. 誤差1%未満という正確さ

忠敬は第2次測量で緯度1度の長さを28.2里、約110.7kmと算出しており、現代の値である約111kmとの誤差は1%に届きません。

第4次測量から戻った忠敬に、至時が解読中の西洋天文書『ラランデ暦書』の値とほぼ一致すると告げ、2人で大いに喜び合ったと伝えられています。

※『ラランデ暦書』はフランスの天文学者ラランドが著した天文学の書物です。

7. 腰に差していたのは竹の刀

忠敬は第1次測量を終えた享和元年に幕府から名字帯刀を許され、苗字を名乗って刀を差すことができるようになりました。

ところが実際に測量中に腰へ差していたのは竹で作った模造刀の竹光だったといい、鉄が方位磁針の針を狂わせてしまうためだと説明されています。

※「竹光(たけみつ)」は竹を刀の形に削って作った模造刀のことです。

8. 造り酒屋の当主が定めた禁酒

実家の伊能家は佐原で初めて酒を造ったといわれる造り酒屋で、その元当主だった忠敬ですが、測量隊の隊規では隊員の禁酒を定めていました。

第5次測量の後には隊規を破って酒を飲んだ弟子2名を、高橋景保と相談のうえ破門にし、ほかの3名も謹慎処分としています。

※「隊規(たいき)」は測量隊の中で守るべき決まりごとです。

9. 歯が1本しか残っていない

全国を歩いた忠敬ですが健康だったわけではなく、持病を抱えており、旅の途中で何度もおこりと呼ばれる高熱に倒れたことが記録に残っています。

長女イネに宛てた手紙には、歯が1本しか残らず奈良漬も食べられないので、豆腐や蕪などを口にしていると書かれています。

※「おこり」は熱が周期的に出る病気の呼び名で、マラリアにあたるとされます。

10. 死を伏せたまま続いた作業

忠敬は1818年に73歳で亡くなりますが、その死は伏せられたまま作業は続けられ、『大日本沿海輿地全図』が上呈された1821年の約2ヶ月後に喪が公表されました。

伊能忠敬記念館はその理由を地図の功績を忠敬のものにするためと説明し、ほかの説も唱えられています。

※『大日本沿海輿地全図』は「だいにほんえんかいよちぜんず」と読みます。

11. 焼失をまぬがれた副本

幕府に納めた正本は1873年の皇居炎上で焼け、伊能家の控図も1923年の関東大震災で失われました。

ただし伊能隊が作った副本は神戸市立博物館や東京国立博物館に残り、2001年にアメリカ議会図書館で見つかった伊能大図の写し207枚は明治以降の模写と判定されています。

※「正本(しょうほん)」は幕府に納めた正式な図、「控図(ひかえず)」は伊能家が手元に置いた図です。

12. 師の子が背負った代償

1828年に起きたシーボルト事件では、伊能図をシーボルトに渡した幕府天文方の高橋景保が投獄され、翌1829年に獄中で亡くなっています。

景保は忠敬の師である至時の息子であり、遺体は塩漬けにされて1830年に引き出され、罪状を申し渡されたうえで斬首とされています。

※「天文方(てんもんかた)」は暦や天文の仕事を受け持った幕府の役職です。

※シーボルト事件は、オランダ商館の医師シーボルトが持ち出し禁止の地図などを入手していたと発覚した事件です。

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