元寇の雑学11選!史上最大14万の大艦隊を2度も沈めた神風の正体
今からおよそ750年前、海の向こうの大帝国モンゴルが二度にわたって日本へ攻め寄せた大事件が元寇です。
てつはうという火薬兵器や見慣れない集団戦法に武士たちは大いに苦しみましたが、暴風雨にも助けられて撃退に成功しました。
その裏には、恩賞をめぐる御家人の不満や、遠く高麗の人々の苦労、今も残る撤退の謎など、教科書だけでは見えてこない物語が数多く隠れています。
そんな元寇にまつわる雑学を11個ご紹介します。
1. てつはうで武士が混乱
元軍が使った火薬を詰めた炸裂兵器「てつはう」は、大きな爆発音と立ちのぼる煙で、慣れない武士たちをひどく驚かせたとされます。
蒙古襲来絵詞にもその様子が描かれており、突然の爆音に武士の乗る馬が暴れ出し、戦場が大きく混乱する場面もあったと伝わっています。
2. 神風が二度も元軍を退けた
文永と弘安、二度の襲来では台風とみられる激しい暴風雨が海上の元軍の船団を襲い、多くの船を沈めて大きな損害を与えたとされます。
この暴風は当時から神仏の加護によるものと人々に広く宣伝され、後の世まで神風という言葉とともに長く語り継がれていきました。
3. 集団戦法が武士を圧倒
元軍は鼓や銅鑼といった鳴り物で合図を送りながら、大勢の兵がまとまって一斉に攻めかかる集団戦法を得意としていました。
名乗りを上げて一騎打ちを重んじる日本の武士は、この統率のとれた集団の戦い方に大いに苦しめられたと軍記物語の八幡愚童訓は今に伝えています。
4. 元の使者を斬首した幕府
元の皇帝フビライは日本へ何度も服属を求める国書を送りつけてきましたが、時の幕府はこれに応じようとはしませんでした。
1275年には杜世忠らを鎌倉の龍ノ口で、1279年には周福らを博多で斬首し、けっして屈することのない強い姿勢を国の内外に対して示したのです。
5. 防塁が二度目の上陸を阻止
一度目の襲来のあと博多湾沿いに築かれた石の防塁「石築地」は、総延長がおよそ20kmにも及ぶ大がかりな工事でした。
二度目の弘安の役ではこの防塁が元軍の上陸をしっかりと防ぐ役割を果たし、その一部は今も福岡市内にきちんと残されていて見学することができます。
6. 恩賞なしで不満が爆発
元寇は他国からの攻撃を防ぐための防衛戦だったため、たとえ勝利しても新たに手に入れられる土地というものが一切ありませんでした。
そのため命がけで戦った御家人たちに十分な恩賞を出すことができず、幕府に対する不満がしだいに大きく広がっていったともされます。
7. 絵詞を自費で作った武士
肥後国の武士であった竹崎季長は、元寇での自らの活躍ぶりを絵師に細かく描かせた「蒙古襲来絵詞」を、わざわざ自分の費用で作らせたことで広く知られます。
恩賞を求めてはるばる鎌倉の幕府まで直訴に向かったという逸話も、あわせて今日まで長く語り継がれています。
8. 史上最大14万の大艦隊
二度目の弘安の役で日本へ押し寄せてきた元軍は、東路軍と江南軍という二手を合わせて、およそ14万人を超えるほどの大軍勢だったとされています。
運んだ艦船は4400隻にものぼるといわれ、当時としては世界でも屈指の規模を誇る、まさに史上最大級の大きな艦隊でした。
9. 文永の役に残る撤退の謎
一度目の文永の役で、優勢に見えた元軍がなぜかその日のうちにあっさり引き上げてしまった本当の理由は、今もはっきりとは分かっていません。
大きな台風があったとする記録は不明瞭で、日本軍の激しい抵抗や船上での兵糧の不足を挙げる説なども有力とされています。
10. 高麗は参戦を強いられた
すでに元に服属していた朝鮮半島の高麗は、大量の軍船の建造や多くの兵員の供出、そして兵站の負担までも元から一方的に厳しく求められました。
こうした無理な動員のせいで高麗の国内は大きく疲弊し、多くの人々の暮らしは苦しくなっていったと伝えられています。
11. 元寇が遠因で幕府が滅亡
二度にわたる元寇は幕府の財政を大きく圧迫したうえに、恩賞をもらえなかった多くの御家人たちの不満を深める重大なきっかけにもなったと考えられています。
1281年の弘安の役からおよそ50年後にあたる1333年、鎌倉幕府はついにその滅亡を迎えることになったのです。