藤原道長の雑学11選!実は一度も関白じゃなかった
摂関政治の頂点に立ち、娘を次々と后として送り込んで「この世をば我が世とぞ思ふ」と満月に詠んだ藤原道長。
その名は日本史を代表する権力者として広く知られていますが、実は一度も関白に就いていないなど、意外と知られていない事実も少なくありません。
鷹狩りや音楽を愛した一面から、晩年に視力を失った苦しみまで、道長の生涯は驚きと発見に満ちています。
そんな藤原道長にまつわる雑学を11個ご紹介します。
1. 満月の夜に詠んだ傲慢な和歌
1018年の秋、道長は娘たちが后として並ぶ祝宴で満月を仰ぎ「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」と詠みました。
この世は私のものだ欠けがないという意味で、道長の絶頂期の自信と喜びをうたった一首として今も広く語り継がれています。
2. 3人の娘が同時に后となった
道長の娘の彰子・妍子・威子がそれぞれ異なる天皇の中宮・皇后・皇太后に就き、三者が同時にその位に並ぶ前代未聞の状況が生まれました。
「一家三后」と呼ばれるこの事態は藤原氏の摂関政治が頂点に達したことを象徴するできごとで、後世に広く語り継がれています。
3. 鷹狩りや音楽を何より愛した
道長は政務に長けた権力者として知られる一方、鷹狩りや笛の演奏など遊芸に没頭する時間を特に好んだと伝えられています。
みずから記した「御堂関白記」には公務の合間に趣味を楽しむ姿も記されており、当時の貴族文化の豊かさを今に伝える史料となっています。
4. 糖尿病で晩年に視力を失った
道長は晩年に深刻な体調不良に悩まされ、残された記録から糖尿病に相当する病を患っていたと考えられています。
視力を失う症状もあらわれ、建立した法成寺の仏像もよく見えないまま亡くなったとも伝わっており、絶頂とは対照的な苦しい晩年だったとされています。
5. 外祖父として半世紀君臨した
道長の娘の彰子が産んだ後一条・後朱雀天皇の外祖父となり、幼い天皇の即位ごとにその外祖父が実権を握る慣例を最大限に活かしました。
これにより長年にわたって朝廷の政務を主導し続け、藤原氏摂関政治の頂点に立つ人物として50年近く君臨したとされています。
6. 満月に自分を重ねた傲慢な自賛
「望月のかけたることもなし」という表現は、満月を完全さの象徴とした詩歌の慣習のなかで用いられた言葉です。
自身をその月に重ねて公に詠むのは控えめを美徳とする貴族社会では異例の大胆さで、藤原実資が「小右記」に書き留めたのも衝撃ゆえとされています。
7. 藤原氏の頂点を一代で極めた
摂政として天皇を補佐し太政大臣の地位にも就いた道長は、朝廷の政務をほぼ一手に動かし続けました。
平安時代の藤原氏のなかでも道長ほど長期間にわたり権力の中枢に立ち続けた人物はおらず、藤原氏がもっとも輝いた時代を一代で体現した存在と評されています。
8. 御堂関白の由来となった法成寺
道長は私財を注ぎ込んで法成寺を建立し、阿弥陀堂が「御堂」と呼ばれたことから道長自身も「御堂殿」と称されるようになりました。
金堂や五大堂など多くの伽藍が並ぶ壮大な寺院でしたが、道長の死後に管理が難しくなり火災などで多くが失われてしまいました。
9. 実は一度も関白に就いていない
摂関政治の代名詞のように語られる道長ですが、関白という役職には実際には一度も就いていません。
道長が担ったのは幼い天皇を補佐する摂政と朝廷の最高官職の太政大臣であり、成人した天皇を助ける関白には道長の兄の道隆・道兼らが就いていたとされています。
10. 紫式部の日記が道長を記録した
宮中に仕えた紫式部は「紫式部日記」のなかで、道長が直接声をかける場面なども交えてその様子を詳しく書き残しました。
「源氏物語」の作者が間近で見た権力者の素顔として貴重な史料で、道長と紫式部の関係は平安文学を語る上で欠かせないとされています。
11. 道長の死後に急速に衰えた藤原氏
道長は1027年に62歳で亡くなりましたが、後を継いだ頼通は結果として道長ほどの権力基盤を持てず天皇家との外戚関係も次第に薄れていきました。
摂関政治は院政と武士勢力の台頭の前に力を失い、藤原氏の黄金期は道長とともに幕を閉じたといわれています。